第3話

「はあはあはあ……!」


 無我夢中で走り、体力が尽きたところで減速する。

 荒れた息を整えながら油断なく、後ろを警戒する。

 追ってくる気配はない。

 己の呼吸音のみが辺りに響いている。


 さっきのは何だったんだ?


 切迫した事態を切り抜け、また距離を取れた事で冷静に思考する余裕ができた。

 だが、答えは出ない。いや、答えは一つしかなかった。


「勘弁……してくれ、よ……」


 息が整うのには今しばらくかかるだろう。

 もう一度、襲われたらと想像し、身震いする。

 しかし、焦ったところで体力は戻らない。


 冷静になれ。

 あれは認めたくないが……噂の幽霊だろう。

 本当にいたのだ。生き人だとも錯覚だとも思えない。

 彼女は顔がなかった。正確には目と口が底なし沼のような闇を内包していたのだ。

 一瞬の出来事だったが、あの光景は一生忘れないだろう。

 それほどまでにインパクトがあった。


「くそ……剛は……」


 剛の安否が心配だった。

 俺を襲って来たのは、たまたまなのか、それとも“次のターゲット”だからなのか。

 前者であってくれと願うしかない。


 方向的に幽霊はこっちから来たのだろう。

 なら、剛がいる可能性も高まる。


「あの人は……」


 電話ボックスで会った不思議な女性を思い浮かべる。

 彼女の方に行ってなければ良いが。

 助けに行くなど無謀な事は考えていない。

 絶賛助けに来ている最中だし。

 二次被害に遭う可能性も高いし。


「っ!」


 草が擦れる音がし、体が強張る。

 風か……。勘弁してくれ……。

 物音一つで死ねる緊張感だった。


「でも、思ったよりは動けるな」


 素直な感想だった。

 異常事態に関わらず、体も思考もフリーズしていない。

 否定しつつも可能性は考慮していたからだろうか。

 何にせよ、良い事だ。


「問題は剛だな」


 剛が見つからない事には逃げる事もままならない。

 どうにか、ヒントでも手に入れば……。

 しかし、携帯は幽霊の支配下にあるようだ。

 通信機器がない以上、運良く出会う事を祈るしかあるまい。


「いっそ、帰るか?」


 冗談を呟く余裕も出てきた。

 ここまで来てオメオメと帰る気は毛頭ない。


「……またかよ」


 着信だ。

 相手がわかっている以上、出るわけがない。

 そんな事もわからないのか。幽霊ってそういうもだと言われればそれまでだが。


「待てよ、さっき急に現れた時も電話が……」


 もしかしたら、あいつは電話する事でこちらの場所を把握するのでは。

 思えば、最初の言葉は“見つけた”だった。

 じゃあ、出なければ良いのか? 繋がっている時点でダメなのか?

 繋がりを作るという点では出なくても……。


「ニ く い」

「だよな……!」


 視線を前へ向けるとそこに女の幽霊が現れた。

 何の前触れもなく、突然だ。

 多少なりとも距離があるのは、そういった条件なのだろうか。

 とにかく、距離をとりつつ、観察する。


「に ク い」


 幽霊は憎いと繰り返す。

 動きはやはり緩慢だ。

 不意打ち以外で捕まる可能性は低い。


「虐めてた奴らが憎いんだよな。わかるよ。でも、俺たちは関係ないだろ?」

「に く い」

「俺も剛もイジメなんてしないし、なんだったら助けた事だってある」


 中学の時、他クラスの生徒が虐められている現場に居合わせた俺らは無視を決め込まず、助けた。

 それが拓也であり、今でも連絡を取り合う仲になったキッカケであった。

 だから、彼女に狙われる理由はないのだ。

 それこそ、生者そのものを憎んでもいない限り。


「ニ……」

「そんなに憎いならそいつらの所に行けよ!」


 カッとなって怒鳴りつけてしまう。

 しまった。感情的になるメリットはないのに。

 俺の解釈では幽霊は感情そのものに近い。故に理屈は通じず、感情への反応は強い。

 だから、落ち着いて対処してきたのに……。


「…………」


 幽霊は手を下ろし、うなだれる。

 言葉が通じたのか?

 だとしたらこの沈黙は怖い。


「セ……セせせせせせせせ」


 いきなり壊れたスピーカーの如く同じ言葉を繰り返す。

 生理的嫌悪感が込み上げてくる。理由は直ぐにわかった。

 息継ぎがないのだ。そのため、慣れ親しんだリズムとは違う、そう不協和音のような気持ち悪さ。


「セイじゃ、ガ、ニク、い」

「セイジャ……生者!?」


 やっぱりかと顔を歪める。

 いつから幽霊をやっているかは知らないが、妄執は歪み、悪意を皆へと振り撒く存在へと変貌してしまったのだろう。


「シ ネ」


 殺しにくる。本能が囁く。

 明らかにフェーズが、様子が違う。

 ならば、きっと速度も先ほどまでとは比べものに……。


「あああああアアアアアアア!?」

「くっ……!?」


 逃げる準備はしていたのに、とっさに避ける事を選択する。

 直感的選択だったが、またも正解を引けた。

 一瞬前まで俺がいた場所を駆け抜けた幽霊の速度は想定を軽く越えていた。

 真っ直ぐ逃げていたら即座に捉えられていただろう。


 唾を飲む。上手く飲み込めない。

 いつの間にか、口内はカラカラだった。

 手も震えている。今ので恐怖が……。


 違う……。ずっと震えていたんだ……!


 恐怖を高揚と勘違いし、あたかも正常に動けていると誤認してしまったのだ。

 一度気づくと嫌でもミスを自覚する。

 そもそも、剛を探すにしても幽霊を相手取る必要はないのだ。

 一目散に逃げ出し、駅の周辺から大声でもあげれば良かった。

 携帯だってそこらに捨てれば良い。

 今更、他人への迷惑やお金の事を気にしている余裕はないだろうに。


 判断ミスは致命的で、幽霊はこちらを越える走力を発揮し、俺の体力はそう遠くない内に尽きるだろう。

 間違っても幽霊をかわし、安全圏まで逃げ切る事はできない。


「どこか……逃げる場所は……」


 視線は外さずに逃げ場を探す。

 建物は鍵が閉まっている可能性が高い。

 なら、木々の間を抜けていく? 幽霊は物理的な扱いはどうなんだ?

 見通しの悪さなども、生身の人間にしか影響がないのではなかろうか。


「手詰まりだな……」


 幽霊はこちらの動きを待っているのか、道の真ん中を陣取ったまま動かない。

 道の幅はそれなりにあるが、あの速度を考慮すると守備範囲に隙はないだろう。

 奥行きはまだあるが、それもそう長くはない。

 入り口で見た案内板によると、横に抜ける道も期待できない。


「長期戦は避けないと……」


 汗を袖で拭う。

 せめて、夏でなければもう少し持つのにと愚痴る。

 行くしかない。行くしかないのに。全身の震えが止まらない。


 怖い……何で……だから……。


 後悔は意図的に遮断する。決壊すれば、きっと動けなくなるから。

 とにかく、ここを抜ける以外に道はない。

 だが、安易な突破はまず成功しないだろう。

 理性的でない分、予想外の動きへの対応にはラグがでるはず……そうに違いない。そういう事になった!

 決めつけ、視界の端に映るトイレを見る。

 入り口を隠すための1m程のコンクリートの塀、屋根についている出っ張りは2m半ばぐらいだろうか。


「行ける……」


 ジリジリとポジションを移す。

 ここで襲い掛かられたらお終いだ。

 きっと、彼女は苦しめる事が目的だから見逃してくれるはず。見逃してくれ。


「…………」


 祈りが通じたのか、視線は外さないが咎める事も、動き出す事もなかった。

 これ以上は流石にリスクがある。斜めに走れば追いつかれる前にトイレに辿り着けるはずだ。

 後はイメージ通り、体が動けばこの窮地を脱せるだろう。


「すーはー……すーはー……」


 胸に手を当て、深呼吸を繰り返す。

 大丈夫だ。鬼ごっこと考えれば良い。

 俺は逃げるのが昔から得意だった。

 この手の逃げ方も幾度となく成功させてきただろう?

 怒られてやらなくなったけど、その経験はこの体に刻み込まれている。

 覚悟を決め、腰を落とす。


「っ!」


 そして、スッと息を吸い込み、走り出す。

 視界の端で固まっていた幽霊は少し遅れて地をかける。やはり、速い。

 けれど、俺の方の一瞬早い!

 強く踏み切り、塀の上へと飛び乗り、その勢いのままトイレの屋根へと飛び乗る。

 二回目のジャンプは高さが少し足りなかったが、そこは腕力で強引にカバーする。

 思惑通り、屋根の上へと登れた。

 バランスに気をつけつつ、幽霊の様子を伺う。


 よし、とりあえずは追ってこないな。

 塀のところで呆然と立ち尽くしている。……いや、呆然としているかはわからないけど。

 道の中央に戻る気配もない。

 思った通り、予想外の事態……この場合では、立体での動きには弱いようだ。

 とはいえ、結局は下りないといけないため、追われるリスクは残っていた。

 視線を外せば追ってこないのは定番だろうと天に祈る。


「頼む……」


 反対側から飛び降り、トイレによって向こう側からは死角になっているだろう道を走る。

 追ってくる足音は……聞こえてこない。

 足は止めずにチラリと振り返る。

 後方には誰もいない。

 こちらからも見えないのは怖いが、だからこその死角だと恐怖を抑えつける。

 音が聞こえないのだから大丈夫なはず……。


「あ……れ……?」


 間抜けな声が漏れる。

 そもそも、あいつが動く時、音ってしてたっけ。

 思い出せなかった。なら、何故俺は音を頼りにしたのだろうか。

 そんなの常識的に考えて……幽霊に、常識なんて……意味、あるっけ?

 無意識に視線を横へと移す。

 そこには、


「ミ ニ シ」


 言葉にならない音を発し、歪んだ笑みを浮かべつつ、俺の顔へと手を伸ばす幽霊がいた。

 ダメだ……逃げられない……。

 絶望が心を覆った時だった。


「伏せて!」


 力強い声に引っ張られるように体勢が崩れる。

 膝が限界を迎えたようだ。

 次の瞬間、眩い光が頭上を通過する。


「アアアアアアア!?」


 遅れて幽霊の甲高い悲鳴が耳に届く。

 視線を上げると幽霊は顔を抑え、ふらつきながら木々の奥へと消えていく姿が映った。


「ふう、大丈夫かい」


 事態が理解できず、呆然としている俺に声をかけたのは、あの黒髪ロングの女子高生だった。

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