第16話

私は久弥とずいぶんと屋敷の遠くまで散歩をし、まさしくそれのみで、私はお屋敷に帰ってまいりました。

「じゃあ、姉さん。僕はこれで」

 居心地悪そうにすぐ去ろうとする久弥の腕を引っ張って引き止めます。

「お昼も食べないで帰るつもりなの」

「でも姉さんの迷惑になるだろう」

「まさか。スミさんにもちゃんと許可はいただいたわ。あなたは何も心配する必要はないの」

 年末なので店は方々しまっていることはとうに承知しています。二人で食事をしようというのなら、天蔵家の使用人食堂がうってつけです。料理番だって来ていますし、いざとなれば私が自分で作れば良いのです。

 でも、と久弥はそわそわした様子で頬を赤く染め、私と掴まれた自分の腕、そして周囲の様子をかわるがわる目で追います。

「何をしている」

 久弥は凍りつき、私は聞き覚えのある声に思わずびくりと肩を震わせました。慌てて腕を離します。

「優さま、どうしてこちらにおいでなのです」

 私は呆然とその方を見上げます。きつい双眸が私に注がれているのがわかると、衝動的に逃げ出したくなりました。

 それでも、おかしい、と確かに思いました。ここは屋敷と外をつなぐ門ではありますが、主に使用人が使う小さな通用門なのです。表の大きな門構えとはまるで逆方向に存在しているのです。

「庭を、散歩していた」

 優さまが散歩をなさることに何の不思議はございません。時折、息抜きに庭を散歩なさることなど常にありうることでした。

 そう、これは偶然なのです。そこに優さまの意思など存在してはならないのだと思うのです。

「用事は終わって帰ってきたところか」

 優さまはちらりと弟を見ますと、顔を露骨にしかめられました。

 可哀想に、弟はすっかりすくみあがってしまって、優さまのお顔を伏し目がちに見つめるのみです。弟とてこの方がどのような立場の方か、わからないはずがないのです。

「はい」

 優さまはむすりとしたお顔のまま、私を手招きされますが、私はといえば久弥のことを思って躊躇いがちに久弥を見ます。久弥は行って、とでもいうように私に目配せを送りました。

「また連絡して」

「わかったわ。久弥、ちゃんとご飯食べなさいよ」

 久弥の横を通り過ぎたとき、私の目の端には、心配しすぎだよ、とでも言いたそうな昔のままの久弥の表情がありました。それに急に私は安堵感を覚えたのです。

「お待たせいたしました」

 優さまは私が小走りするほどの距離を歩いていらっしゃいました。追いついてご様子を伺いますと、まるで苦いものを食べたおじいさんのような顔をしていらっしゃいます。

 この方がたとえば微笑んだならば、どれだけの人が幸福になれるのだろう、と私は夢想します。きっと誰もが振り返らずにはいられないほど、心を動かさずにはいられないほど。重苦しいものを背負った顔をなさらなかったら、もっとこの方の優しい内面が見えるはずなのです。

「あれは誰だ」

「弟です」

「似ていないな」

「ええ、似ていません」

 血縁関係はありますが、私と弟はそこまで似ていないのです。唯一似通っているのは唇の形ぐらいのものでしょう。ぷっくりとした腫れぼったい小さな唇が、かろうじて私たちの血のつながりを想起させるものでした。

「優さま」

 優さまとお話するとき、私はどこか晴れがましい気持ちになります。自分が人一倍賢くなった気がするのです。特にこのように打てば響くような弾んだ会話を交わした折には。

 そしてこうやって優さまの瞳が私を捉えたときには、欲しかったものが手に入るのです。

「久弥は帝大を目指しております」

「そうか」

 優さまは今更のように振り向かれて、今まさに町角を曲がっていく後ろ姿をみつめておられました。

「あれがそうなのか」

 は、と私は意味を取り損ねて、まじまじと優さまの横顔に注目します。優さまはぶしつけだというような視線を向けられましたが、結局それを言葉になさりませんでした。

「優秀な弟の学費を稼ぎたい、と言っていただろう」

「はい。賢い子です」

 遠く離れていると、美点ばかりが記憶に残るものです。それでも久弥はずっと、離れて暮らす前からも、欠点などはさしてないように思えていました。成長したらさらにその思いは強くなり、その存在と比べると、自分が恥ずかしくてたまらなくなります。私は同じ場所に留まってばかりで何も成長などしていないのですから。

「羨ましいか、弟が」

 一際、冷たい風が間を吹き抜けていきます。まるでその風の尾を追いかけるように私はごく自然に顔を背けていました。

「私も弟のように学びたい、と思うときがあります。それを羨ましいというならば、きっとそうです」

 知りたいと思うことのなんと多いことかと嘆いてみせたくもなります。家事や裁縫の授業は不得意ではなくとも、それよりも国語を学んでいるほうが好きでした。算盤をいじっているほうが好きでしたし、本を読むことが楽しみでした。

 けれど、それは世間から見れば、賢しらな女のすることなのです。不必要な学問を持つ女には冷たい世の中でした。たとえ、近頃、女の権利を声高に叫ぶ革新的な女性たちが出てきていようとも、その願いが届くのは少なくとも数十年後のことになるでしょう。すでに私がいないとも限らない数十年後を待ち続けることはできません。

「もちろん、このことは弟には決して告げません」

 そうだろうな、と驚くことに優さまはまるで私の考えをよく理解してなさるように同意なされます。

「なんだ、じろじろと見るものではない」

 優さまは渋面を作られます。私は申し訳ございません、と慌てて正面を向きます。

 やがてざくざくと庭を歩く足音ばかりに気を取られるようになった頃、屋敷の正面玄関に出ました。私が先立って、扉を開けようとするより早く、優さまが私の脇を通り抜け、扉に手をかけます。

「優さま」

 常にない行動に私は訝しげに名前を呼びます。

「知っているか」

 優さまは私の正面に立たれて静かに語りかけられます。小説の語り手のように。

「世の中というものは摩訶不思議にできているものだ。この国では妻は夫のうしろをついていくものだが、欧米ではまったく違うわけだ」

 このように、と優さまはおっしゃって、大仰な仕草で扉を開けて、私に先に入るよう、手で促します。

 私はすっかりまごついてしまって、その場に立ち尽くしてしまいます。

「女性は守るべき者として、丁重に扱うなどという、文化も存在している。実に奇妙なものだな」

「そうですね。私からすればおかしなことです」

 言いつつ、私はおそるおそる優さまのご様子を伺います。優さまにこのように扉を、それも使用人が使えない正面玄関の扉を、わざわざ開けていただくなど、それこそおかしなことでした。優さまは、私が困り果ててしまうことをご存知なのでしょうか。

「だがそれこそが、今読んでいる本の主人公、アリスのいたところだ」

 もう待ってはいられなくなったのでしょう、優さまは私の腕を引っ張って強引に扉の内側に入れてしまいます。その一歩は足がもつれかけたものですが、アリスが不思議な世界に飛び込むのと似た、何かの高揚感がわきあがってきます。それはきっと私の腕に触れていて、私がどのような反応をするのか、おそらく面白がっている優さまを見つめているからでもあるでしょう。

ですがそれはほんの一寸の間のこと。閉められたとたん、私はこの場を誰かに見られていないか心配してし、使用人としての良心に苛まれます。ただ今は幸運にも藪入り中なので、誰も通りがかっていたりしていないのが不幸中の幸いでした。

「本を読んで理解することもやはり学ぶことだろう。学校に行かなくとも、学べる機会などいくらでも存在する」

 優さまが慰めてくださっているのは朧げながらもわかります。回りくどく、言葉足らずなところもあるのでしょうが、この方が私の為を思って言ってくださっているのはわかるのです。今、私が優さまに教わっていることにも何の無駄もないのだと、きっぱりと。

 ですが、私はそのことを故意に無視します。その代わり、ありがとうございます、と頭を下げました。

「何を持って礼を言う」

 優さまは探るように私を見据えておられるのがわかりました。何も気づかないふりをして、視線を扉に向けます。

「扉を開けてくださったことです。今までにされたことなどありませんでしたから。とても貴重なことをしていただきました」

 とても感謝をしています。この言葉にだけ私の本心が込められています。この方が真意を悟らないことを願いながら、こうやって私は嘘の言葉の中に真実の気持ちを忍ばせます。心にもないことばかり言って疲れてしまわないように。

 最近ずいぶんと嘘をつくのが上手くなったと思うのです。

「そうか」

 優さまはそれだけおっしゃいます。止まっていた足は、すぐさまご自分の部屋に向かわれていくのを、見送りかけて、私はその背中を追いかけました。

 昨夜の約束通り、本の続きを、英吉利の言葉を教えていただかなくてはならないのです。

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