第3話

なし崩しのように、私は天蔵家使用人を続けていくことになりそうです。スミさんも、金井さんも一切口になさらないところを見ると、そのようでした。優さまも何事もなかったかのように振る舞われます。いつものように、私たち使用人が頭を下げていく中を足早に突っ切っていかれます。

 首元の怪我は数日で瘡蓋が張って、やがて治っていきました。月子さまに貸していただいた白いハンケチは私の血で汚れてしまいましたので、できるだけ綺麗に汚れを抜いて洗いました。次に来られた時にお返ししようと思います。

 

 その日、私には手紙が届いておりました。田舎にいる叔父と叔母、そして弟からの手紙です。弟は今高等学校に通っているのですが、手紙がまとめてきたところを見ると、たまたま帰省をしていたようです。取り止めのない近況が綴られるばかりの手紙ですが、懐かしい筆跡です。しばらく会っていませんので、そろそろ顔をみたいところです。

「ご家族はお元気そう?」

 佐恵子さんが開いたままの私の手紙を覗き込みました。

「ええ、いつも通り。でも佐恵子さん、覗きはいけないのよ」

 ひらひらと手紙を頭上高くに上げます。こうなったら私よりも背丈が低い佐恵子さんには届きません。佐恵子さんの顔に不満の色が走ったけれど、不躾(ぶしつけ)であると自分でもわかっているのでしょう、大人しく手を引っ込めます。

「秘密ばかりはよくないわ。私は全部手紙を見せているのに、ちっともみやは見せないんだから」

「佐恵子さんは自分から見せてくるのでしょう。私はちっともお願いしたことないもの」

 佐恵子さんには幼い小さな妹が二人いるのだそうです。三つと五つといえば、かわいい盛りです。佐恵子さんは二人の妹の様子を手紙で知るのが何よりの楽しみなのです。そして妹可愛さに、私にまで自慢してくるところが短所でもあります。

「みやは意地が悪いわ。そんな何でもないような顔をしているのに、紀(き)絵(え)と美江の話をすれば、会ったこともないのに楽しそうに聞いてくれるじゃない」

 紀絵と美江というのは、佐恵子さんの妹の名です。

「私には妹がいないから、微笑ましいの。いいなあって」

 佐恵子さんの家には祖父母、父母、兄、妹がいるのだそうです。私には、父も母もいません。養父母となった叔父夫婦や弟となった従弟には感謝してもしきれない恩がありますし、実際父母と慕ってまいりましたが、こんなときには羨ましくも思うのです。

「みやの家には弟さんが一人いるだけだものね」

 佐恵子さんは私の事情を知りません。私はお茶を濁すように曖昧に笑んでみせました。

 

 私は、手紙を見られたくはないのです。いつもそうだとは限りません。それでも時折、私の事情を悟られるような文言が混ざっています。私を心配するがゆえの言葉とはいえ、他人に見られていいものではありません。

 郷里の風評を逃れて、帝都にやってきた女。結婚直前になって相手に駆け落ちされた女。隠しておきたい過去を隠したままにおける今こそが、幸せなのだと思うべきなのでしょう。幸いに、仕事は必死になればついていけないこともありません。大きなお屋敷であるために勝手が違うことも多々ありましたが、慣れつつあります。金井さんもスミさんもよくしてくださいます。これ以上の職場を求めてしまっては、罰が当たるものでしょう。

「そういえば、みや。あなた、ご家族にその髪のこと、書いたの?」

 ふっと思い出したように佐恵子さんは話を振りました。

「まだよ。この手紙の返事に書こうと思っているの。どう切り出したものか、困ったものだわ」

 苦笑いをしてみせ、手紙はエプロンのポケットへ突っ込みます。細々としたものを入れられるように大きなポケットは、こういうときに便利です。休憩時間はもう終わり。正面玄関のお掃除が待っています。

「みやって、賢いはずなのに、どうしてか馬鹿みたいに思い切った行動をするわよね」

 呆れ半分、感慨半分に佐恵子さんは嘆息をつきます。確かに思い返してみますと、佐恵子さんのいうことはおおむね同意してもよいのではないでしょうか。

「そうね。私、賢かった覚えなんてちっともないもの。きっとそうなのよ」

 大真面目にそう言ったのですが、佐恵子さんはあっけにとられた顔をした後、くすくすと笑ってしまいました。まったく不思議でたまりません。

「佐恵子さんだって、人のこと言えないぐらいひどいじゃない。笑うなんて」

「だって、可笑しいのだもの。変に都会に擦れていなくて、純朴というか」

 佐恵子さんは雑巾の入った桶を持ち上げました。私も同じように水の入った桶を持ち上げます。

「きっと、月子さまもそういうところがお気に召したのね」

「月子さまに?」

 私には鸚鵡(おうむ)返しのように返します。考えても、思い当たる節がありません。確かに月子さまは使用人の私にも親切にしてくださいますが、他の使用人に対してのものと大して変わらないように思うのです。

「気づいていなかったの? 月子さま、このお屋敷に来るたびにあなたに声をかけているのよ」

「そうだけれど、それで気に入られているなんて」

 思い過ごしではないの、と冗談交じりにくすりと笑ってやります。さきほどの仕返しです。むっと佐恵子さんはまた不機嫌そうに唇を結びました。

「みやは無自覚なのがいけないわ。月子さまは次期天蔵家当主の妻になるお方よ。奥方に気に入られるなんて、これ以上ないくらい出世の近道じゃない。スミさんみたいに信頼されて、使用人を束ねる立場になれるかもしれないわ」

 佐恵子さんは私が羨ましいのでしょう。私が佐恵子さんを羨ましく思うように。

「別に出世したいわけではないわ。私は働いて、お給金をもらって、実家に仕送りできればそれで満足なのよ」

 

 使用人棟を出て、少し庭を歩いて行けば、天蔵家本邸が見えてまいります。西洋建築の粋を凝らしたような白亜の建物が、正面を囲い込むようにでんと構えております。色つきの玻璃窓をおしげもなく費やして彩られるさまは、財閥として名高い天蔵家の屋敷にふさわしいものです。

 もちろん、私と佐恵子さんは玄関よりはるか手前にある勝手口から入っていきます。

 

 本邸ともなりますと、入りました途端にぴりりとした緊張感が体中に伝わってまいります。赤い絨毯を踏みしめますのも、慎重にならざるを得ません。自然、話す声も辺りに響かぬようにひそひそと囁き声に近くなります。

「そういえば、優さまはあの事件以来、何かおっしゃっていたの」

 私は首を横に振ります。

「謝罪してからは、お話ししていないから」

 そもそも今まで優さまとまともにお言葉を交わしたことなどほとんどないのです。一度、関わりを持ったとしても、それはすでに過ぎ去ったものです。私がどんなにあがいたとて、その眼前で何をしようとも、あの方が気に留めるものは何もありません。私たちは使用人です。……それを知ってはいるのです。

「そう。元気出してよね。優さまが何も言わないということは、みやに罰を与えないってことなのだろうし」

 きっと金井さんやスミさんが私の擁護をしてくださったのでしょう。優さまといえど、幼いころから長くお仕えしている執事と使用人頭に頭が上がらないところがあると聞いています。しぶしぶ従ったのかもしれません。

 

 話はそこで打ち止めになりました。正面玄関に至ります。二階へと通じる白い大理石の階段は手摺に精緻なつる草の装飾が施されております。その階段の両脇には、季節の美しい華が活けられた青磁の壺が二つ。ここは天蔵家の顔です。

 私のように学もない者でも、この玄関には途方もない財をかけられていることがわかります。掛けてある絵一つにも、旦那様はこだわりを持っておられるのだとか。

 掃除する使用人には、塵ひとつ、傷ひとつないように細心の注意を払うことが求められます。使用人として勤め始めた頃には、近寄らせてももらえなかったものですが、こうやってここの掃除を許されるようになるとは、私も少しは使用人らしくなったということでしょうか。

 水の入った桶を階段下に置き、雑巾を手に取ります。気合を入れるように、ゆっくりと息を吐き、佐恵子さんを振り返ります。

「さあ、やりましょうか」

 佐恵子さんと二人、日課になりつつある掃除を今日も始めます。

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