第7話

秋のスケッチ会


 教室の掲示板に秋のスケッチ会のお知らせが出ていた。日帰りで近くの海に行くらしい。どのコースでも絵画教室の生徒なら参加可能だと書いてある。


「参加しますか?」と月山先生から声をかけられる。


「えっと…今読んで知ったので…」と私は振り返る。


「よかったら、参加してもらえませんか? 俺、ちょっと友達のギャラリーの手伝いに入ってて。本当は講師はなるべく参加するべきなんですけど…。小夜ちゃんだったら、絵、上手いから俺の代わりにって言っときます」


「え? 代わり?」


「代わりって言っても教えることはなくて、絵を描いてもいいですし、クラスの人が参加されたら、ちょっと様子見るくらいでいいんですよ。別に、ほんと欠席でもいいんですけど。まぁ、懇親会みたいなのも兼ねてて」


「あ…じゃあ、参加します。海とか行くの久しぶりで」


「あー、良かったー」と月山先生は言った。


 デッサンクラスでも月山先生から案内があった。


「今年は小夜ちゃんが僕の代わりに行ってくれるそうなので、みなさん参加してください」と変なアピールをしていた。


「小夜ちゃん行くの?」と裕子さんに聞かれた。


「うん。行ってみよっかなぁって。なんか、今はすごく絵を描きたい気持ちになってて」


「じゃあ、私も行こっかな」


「ぜひぜひ」と私は裕子さんが来てくれるなら、楽しくなりそうで嬉しくなる。


「春は近くの公園でスケッチして夜はお花見するから参加人数多いんだけど、秋は少し足を伸ばして遠出するから今まで行ったことなかったのよね」と裕子さんは言った。


「外で絵を描くのって気持ちいいですよ」


 裕子さんは参加に手を挙げた。


 私は先生の方を少し見た。


「僕も参加しようかな」と言ってくれたから、今年はデッサンコースから三人参加になった。


 先生はあれから時々、レッスン後の飲み会に参加するようになった。デッサンも少しずつ上手くなっている。石膏像の木炭のデッサンに挑戦することになった。だから隣同士ということはないけれど、休憩時間になると、助けてほしそうな顔をするので、見に行った。


 ブルータスの似顔絵のような仕上がりになっている。


「顔を意識しちゃだめですよ。面で捉えないと…」と言って、くっきり線で縁取られた鼻をぼかしていく。


「鼻とか目とか髪の毛とか、布とかじゃなくて、あくまでも石膏像なんで、固い物体として見るんです。ここはこっちを向いている面で明るくて、ここは斜めを向いてる面は影になってって」


 説明していると真面目に聞いてくれる。


「デッサンは奥深いです」


「基本技術ですから。…でも本当に随分、上達しましたよ」


「小夜先生のおかげです」と言うと、聞いていたのか月山先生が「僕だっていい先生でしょー」と教室の端っこから声をかけてくる。


「もちろんです」


 私たちは顔を見合わせて笑った。裕子さんも笑い声につられてやってきた。


「ほんと、先生、上手くなったわよー」


 裕子さんにまで褒められて頬が赤くなっていた。


「私…水彩画もしたくなってきて。このコースやめようかなって思ってたんだけど。仲が良いから抜けたくなくて」


「両方したらどうですか」と月山先生も寄ってくる。


「そんな時間もお金もないわよ」と笑う。


「え…でも辞めちゃうんですか?」


「うーん。悩ましくて」


「じゃあ、スケッチに水彩絵の具持って来てください。試しに一緒に描いてみましょう」


「わー。小夜ちゃんのが楽しすぎて、思わず転コースしちゃったりして」と裕子さんが言うと「営業妨害だー」と月山先生が泣きまねをする。


「うそうそ。ほら、泣かないの」と裕子さんが優しく言った。


 私も先生もそんな二人を見ながら笑う。温かい居場所だった。家に帰れば、それぞれ問題がないわけじゃない。息抜き。そんな言葉が本当にしっくりする。




 スケッチの日は現地集合だったから、夫が海まで送ってくれた。帰りはみんなと帰るから、と言って迎えを断った。


「潮の匂いがするな」と夫はトランクに置いた荷物を出しながら言った。


「ありがとう」と私は受け取ろうとしたら強い海風が髪をかき混ぜる。


「じゃあ、楽しんできて」


「うん」と髪を手で押さえながら、私は荷物を地面に置いた。


 夫の車を見送ると、潮の香がする、と私は鼻を少し上に向けながら、髪を後ろで一つ括りにした。




 私が二人に挟まれる形で、裕子さんと先生と並んでスケッチをする。何枚か描くと、私は水彩の道具を鞄から出した。


 裕子さんも水彩具を持ってきたので、私は薄い色で下書きするように言った。


「鉛筆ではないの?」


「海と空だけですし…重ねて色を置く感じで描いていくので大丈夫です。気になるなら、本当に薄い色で」と言っていると、先生も水彩が気になったようだったから、私の筆と絵具を貸すことにした。


 真ん中にパレットを置いて、半分ずつ使うことにする。先生は薄い水色を作って、水平線を描いた。私は黄色い線で光を描く。水平線が光で見えない気がしたからだ。


「すごい数の絵具ですね」


「…趣味で。本当はそんなに必要じゃないんだろうと思うんですけど、たくさん絵具が並んでいるのが好きで」と言うと、先生が笑った。


 私がいろんな種類の筆を持っているのを裕子さんが羨ましがるから、貸してあげた。


「水彩画はお金かかるわねぇ」と言いながら薄い線を引いていく。


「デッサンだったら鉛筆だけでいいですからね」と先生が付け加えた。


「小夜ちゃん、時々、一緒に絵を描きに行かない?」と裕子さんに誘われた。


「いいですよ」


「それでいつか二人展しちゃったりして」


 私は目を大きく開く。そんなことを考えたこともなかったけれど、今なら想像できそうだった。


「じゃあ、花を贈りますよ」と先生が言った。


「先生もデッサン飾ればいいじゃん」


 裕子さんが私を通り越えて覗き込む。先生は少し困ったような顔をして言った。


「…デッサン教室辞めるんです」


「え?」と思わず私は横を向いた。


「小夜先生には本当にお世話になって…申し訳ないんですけど」


 奥さんの具合がいよいよ本格的に良くないらしい。うつ病傾向が強くなり、一時入院することになったと言った。


「最後に…スケッチにだけ来させてもらいました」


「折角上手になられたのに…」と思わず残念な思いが口に出てしまった。


「本当に…」と先生も淋しそうに言う。


「えー。私、先生がいたから、楽な気持ちだったのにー」と裕子さんは言う。


「ははは。僕が下手だからでしょう」


「小夜ちゃんに特訓してもらうしかないわね」と否定も肯定もせずに裕子さんはため息をついた。


「…また目途がついたら戻って来られますか?」


 私は先生の方を見た。先生の筆が水色を吸っている。私もその水色が欲しくて、少し待った。


「…どう…ですかね。また…戻って来たいとは思いますけど」


 先生の筆が移動したから、パレットに私の筆を乗せる。


「奥様が良くなりますようにってお祈りしておきますね」


 吸い込んだ水色を水彩紙に含ませる。今度は先生がパレットに筆をおく。


「ありがとうございます」


 水色が足りなくて、私は絵の具のチューブを取って、絵の具を出す。


「使っていいですか?」と先生が聞く。


「もちろんです」


 私が出した水色の絵具、セルリアンブルーに先生の筆先が触れる。でも私たちは触れることはない。その横に緑色、ビリジアンを乗せる。混ぜてくすんだ色を作りたかったから赤色も足した。


「小夜先生が作った色を使ってもいいですか?」


「ずるーい」と裕子さんが言うから、裕子さんにも同じように色を作る。


 青い空と海はグレーがかった海面を見せている。その海面を太陽が照らした光が眩しくて、私は目を細めた。


「少しずつ色を重ねてくださいね」


「うーん。でもなんか、気持ち悪い色になった気が…」と裕子さんが呟く。


「気持ち悪い色なんてないです。とってもいい感じです」


 裕子さんの絵を見ながらそう言うと、先生が「僕のもちょっと不安です」と言う。


「大丈夫です。もっともっと色を重ねても綺麗です。でもやっぱりデッサンと同じで遠くは薄く、近くはしっかりと描くと遠近が出ます」と言いながら、少し描き込んでいいか聞いてみる。


 穂先を持って筆を渡してくれるから、手が触れ合うことはない。波打ち際を私は濃い色で影を描き込む。


「波が…強そうですね」


「足だけ浸して来ようかな」と裕子さんが立ち上がって靴と、靴下を脱いだ。


 肌で触れてみないと、と芸術家の様に言って駆けだす。


「あ」


 割と大きな波が押し寄せて来た。裕子さんが押されて後ろにこけそうになる。でも引く波も強くて、少し足元がよろけていた。


「波が打つのと引くのと…やっぱり打つ方が強いでしょうか?」と私は先生に聞いてみた。


「どうでしょう? やっぱり体験しないと分からないでしょうね」


 眩しい光と強い波と…私は裕子さんを見ながら波の影を追った。


「先生に会えて良かったです」と言って、描いていた絵を渡す。


「下手過ぎて教えがいがあったでしょう?」


 私は先生を見た。


 日差しが強くて目を細める。


「絵を…描くことを」


 視界がぼやけてくる。


(私を)


 繰り返す波の音が穏やかな気持ちにさせる。


「…好きになって欲しくて」


 涙が零れたのは淋しいからだ。先生を慌てさせてしまった。


「好きになりましたよ。上達もおかげ様で…」


 私は薄く微笑んだ。


 触れることもなく、終わっていく時間に。

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