第36話
匂いと言葉
私は突然、新太君に肩を叩かれて、しかも湊が後ろにいて驚いた。
スピーカーで話していた奈々ちゃんの「おーい? もしもーし」と呼びかける声がする。
桃ちゃんが慌てて、私の携帯に「湊がいて、また後でかけ直すね」と通話を切った。
「こんな朝にどうしたの?」と新太君が訊く。
「えっと…びっくりした。ちょっと知り合いの家にいて」
「そっか、俺は湊の家にいたんだけど…これからどっかいくの?」
新太君は喋りかけてくるけれど、湊は後ろの方でぼんやりと立っている。私と目も合わさない。
「ちょっと朝活女子会しようと思って」と桃ちゃんが答えた。
「そっか…」
残念そうに新太君が言うけれど、私は湊のことが少し気になってしまった。
「元気?」と思わず声をかけてしまう。
湊は顔を上げると泣きそうな笑顔を見せた。
「絹…。ごめん」
謝って欲しくて声をかけたわけじゃないけど、明らかに様子がおかしい。
「湊…どうかしたの?」
新太君が私と湊の間に入って変わりに答える。
「ちょっと疲れてて。ここんところごたついてたから」
麻友が妊娠したとか言ってた。
「大丈夫?」と聞くと、力なく首を横に振る。
かつての恋人で、私を可愛いと何度も言ってくれた人だったから、今更だけど、哀しくなる。
「どうしたの? 心配…なんだけど」
「絹とずっと一緒に居たかったけど…こんなことになって…」
湊は悪い人じゃない。むしろ優しいし、誰にでも親切だった。ちょっと心が弱くて、いろんなタイミングが悪かった。
「責任を取って結婚を迫られてるけど…」と言って首を横に振る。
ふと心に引っかかる。
(あれ…そんな話、翠さんもしてた…ような)
可能性の問題だ。翠さんの話は特別な話なのかもしれない。それでも何だか無性に気になる。本当のことは分からないけれど、湊は確認したのだろうか。
「ねぇ、本当に湊の…子どもで間違いないの?」と思わず口に出していた。
「え?」と湊が聞き返す。
「避妊した? それでもできた?」
「…え? だって…。それでもできるって…」
新太君が
「いや、そういうこともあるって」と間に入る。
「でも調べてみた方がいいよ。こんなこと言うのあれだけど…」と私が言うと、桃ちゃんまで「妊娠発覚まで早い気がするんだよねぇ。いつセックスしたんだっけ?」と口を出す。
「え?」と言ったのは新太君だった。
「とにかく、調べて納得してから結婚するなり何なりした方がいいと思ったの。同じような話を知人から聞いて。産まれて来たら違う人の子だったって」と湊に言う。
「そんな…」と何故か新太君が言う。
「新太君って、どっちの味方?」と桃ちゃんが訊いた。
みんなが新太君を見る。
「いや…。麻友がそんなこと…する…かなって」としどろもどろに答える。
「うーん。するかもねぇ。だって湊君の実家にまで押しかけるんだからね。っていうか、新太君もわざわざ絹のバイト先にまでよく来てるみたいだけど…そんなに甘党なの?」
桃ちゃんは私がうっすら感じていた違和感を口に出す。わざわざ私のバイト先まで来なくても、美味しいケーキは今やどこでも食べられるし、バイト先のケーキは美味しいとは言え、わざわざ通うほどなのかとは思っていた。
「え? 絹のバイト先に?」と聞き返したのは湊だった。
「うん。良く来てるって。私、あんまりシフト入ってなくて…。それでも結構会ってる。湊の現状とか教えてくれたりしたけど…」
「甘いもの好きじゃないって聞いたことあるけど…どうして絹のバイト先に?」と湊が新太君に訊く。
新太君は違う方向を向いて、ため息を吐いた。
「良き友人として…通ったら、好意を持ってくれるかなって」
何を言い出すのだろうと、みんなが新太君を見た。
「湊に絹ちゃんのバイト先に連れて行かれて、初めて絹ちゃん見て、可愛いなぁって。でも湊がのろけるから、ますます興味が出てさ。で、二人の様子がおかしい時にさ…麻友は湊が好きだったし、いいチャンスだと思って」
新太君の言葉は信じられないものだった。お互い利害が一致した麻友と新太君は子供を作って、それを湊の子にしたらいいと計画を企てたのだった。
「命を…」と桃ちゃんが息を飲む。
「あー、ばれたか。じゃあ、堕ろしてもらうしかないなぁ」と新太君が言う。
「最低」と私が言うと、新太君が近寄る。
「俺も本当は麻友となんてしたくなかったよ。絹ちゃん」と言われて、背筋に悪寒が走る。
「おい…」と湊が新太君の肩を掴んだ。
「麻友の子がお前の子じゃなかったとしても、やった事実は変わらないんだからな」と新太君が笑いながら湊に言う。
湊の手が震えている。
「湊…。私、もうそのことは怒ってない…。でもね。好きな人が出来たから」と言った。
「え?」と新太君が睨む。
「ごめんね。本当はもう少し湊の力になってあげられたかもしれなかったのに」
「絹ちゃん…。ごめん。俺…本当に好きだった。幸せだった…。すごく、幸せで…。だから…ごめん。でもありがとう」
そう言って、お辞儀する湊を私は切ない気持ちで見つめた。楽しい時間もたくさんあった。愛してくれた記憶も胸に膨らむ。
「私も、ありがとう。頑張って。応援してる」
俯いたまま湊は「うん」と言った。
そして肩を掴んだままの新太君を殴った。地面に倒れる新太君を誰も起こそうとはしなかった。
「行こう」と私は桃ちゃんに手を引かれて、その場を去る。
理由がはっきり分からないけど、胸が張り裂けそうだった。
「絹…。ひどい話だよね」
「…うん」
「あんなクズ見たことない。元カレが美しく見えてきたわ」と桃ちゃんは吐き捨てるように言う。
当初の気分とは違って、かなり重たい気分で、駅前の早朝から空いているカフェに入った。モーニングセットを頼んだものの、二人とも口数が少ない。奈々ちゃんからメッセージが来た。
「奈々も来たいって」
「うん。来てもらおう。それでさっきのこと話してすっきりしよう」と言うと、桃ちゃんは位置情報を写メして送った。
二人で食べていると、奈々ちゃんは彼氏とともに現れた。
「送ってもらっちゃったついでに朝ごはん食べよって」と言う。
奈々ちゃんの彼氏まで巻き込んで、さっきの話を二人で喋った。
「えー」と奈々ちゃんは目を丸くして、驚きの声を上げた。
「赤ちゃんってそんなにすぐにできるの?」と奈々ちゃんは訊く。
「…そうよね? 出来ちゃうのかな?」と私は首を傾げる。
「ってか、リスキーじゃない? それで湊と上手く行かなかった場合、どうするのよ?」と息荒く奈々ちゃんは話す。
「じゃあさ、もしかして…」と桃ちゃんは妊娠が虚言かも、と小声で言った。
今は妊娠検査薬の陽性反応があるものまでネットで売られていると言う。初期だから偽装はできるんじゃないかな、と桃ちゃんの考えだった。
「じゃあ、話がもつれて、時間が進んだらどうするの?」と私が訊くと、桃ちゃんも奈々ちゃんも声を揃えて「『流産しました』って言うに決まってる」と言った。
奈々ちゃんの彼氏が横で深くため息を吐いた。
湊はタイミングが悪かっただけだ。いろんなことに巻き込まれて、少し気の毒に思う。私がため息を吐くと、奈々ちゃんが「どうした?」と聞いてくる。
「湊って悪くないのに、なんか可哀そうで」
桃ちゃんはため息をついて言った。
「あいつ…クズだけど、言ったことは本当」
「え?」と奈々ちゃんが言う。
「どんだけ最低なことが起こっても、やっぱり選択をするのは自分だし、そこで正しい選択ができるか、できないかじゃない? そもそも麻友とセックスしなければ、こんな企みだってひっかかることもなかったのよ?」
「湊、弱ってたから…。本当は私が会いに行けば良かったのかもしれない。でも私…一人にした方がいいかなって…。選択を間違えてたのは私の方かな?」
「…それは違うよ。人の人生なんて、背負えないもん」と奈々ちゃんが言う。
「自分のだけで精一杯なんだから。自分の面倒は自分で見るしかないのよ」と桃ちゃんも言う。
「ねぇ、二人とも人生何周目?」と奈々ちゃんの彼氏が言った。
二人とも顔を見合わせて笑う。
「とは言え…。私は奈々や絹に助けられてるけどね」と桃ちゃんが言う。
「そんなことないよ。私も二人に癒されてる」と奈々ちゃんが言うと桃ちゃんは「癒し担当は絹でしょ?」と噛みつく。
「仲良いねぇ。そうそう、またどっか行かない? あ、笙がメッセージの返事がなくて心配してたよ」と奈々ちゃんの彼氏が言う。
「あ…」
今の今まで返事をしようと思ってできていなかった。
そしてまた男女六人集まって、遊ぶことになった。私は気まずさが半端ない。
みんなと別れて、スーパーに寄ってから翠さんの部屋に戻る。一人になると何だか湊のことで気が重くなってしまう。
階段を上がって、扉を開けると、もう翠さんは起きていた。
「…あ、おはよう」と私を見て、驚いたように言う。
「おはようございます。仕事…終わりましたか?」
「あ、今終わった。後少しのところで眠くなって、横になったら寝てしまった。昨日勝手に隣で寝て、ごめん。すぐ起きるつもりだったんだけど…」と言いながら、翠さんは頭に手をやる。
「ご飯…お昼ごはん用意しますね」と私はスーパーの荷物をテーブルの上に置いた。
「何かあった?」
「え?」
振り返ると、抱きしめられて、頭を軽く撫でられる。
「私の…せいじゃないって思えなくて」
「違うよ」
何も聞かないのに、翠さんは私を甘やかす。
「でも…私が…」
「違う。悪いことは誰のせいでもない。急に降る夕立のようなもんだから。どうしようもない」
翠さんは自分に言ってるのかもしれない。そう思うと、私はもう何も言い出せない。
「でも…悲しんでもいいし、泣いてもいい」
翠さんの匂いと言葉。甘くて優しくて、哀しい。多分、一番、泣きたいのは翠さんのはずだから。翠さんは鈴音ちゃんのことでまだ泣けていないのかもしれない。
暑い日、項垂れたように立っていた後ろ姿は涙を零しているようではなかった。ただ陽に当たって、焼かれているだけだった。
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