第35話

気の強い女



 お風呂から出ると、翠さんは仕事をしていて、桃ちゃんはお布団の上でうつ伏せになってスマホを触っていた。お布団は二組敷かれている。鈴音ちゃんのお布団にいる桃ちゃんの背中に乗る。


「絹、何?」


「マッサージです」と言って、桃ちゃんの背中を両手でぐーっと押す。


「あー、気持ちいい」


「でしょ?」といって、背中から肩の方へ移動する。


「極楽、極楽」


「桃ちゃん、今日、頑張ったもんね。きっといいことあるよ」


「うん。好きだったけど、クソ野郎だった」と言って、足をバタバタさせる。


「桃ちゃんにはもったいない。ふくらはぎも揉みますねぇ」と言って、両手で掴んだら、笑い出す。


「それ、こそばゆい」と体を捻る。


「えぇ。ここもほぐした方がいいのに」と言うと、桃ちゃんが「しー」と言う。


 そうだ。翠さんは仕事中だ。


「もう大人しく寝よ」と桃ちゃんに言われる。


 私は桃ちゃんにぴったりくっついて寝ようとすると「暑い」と離れていった。仕方なく、翠さんのお布団の方に行く。


(翠さんの匂い…)


「電気消すよ?」と桃ちゃんが言うから頷いた。


 電気は紐で消すタイプだった。カチカチカチと音を立てて引っ張る。


「ねぇ、翠さんと何か話した?」と小声で桃ちゃんが訊いてくる。


「うん。好きなだけ側にいてもいいって」


「恋人として?」


「恋人は…ちょっと違うかな」


「え?」


「…分かんないけど」と言うと、離れていった桃ちゃんが私の手を引っ張る。


 頭と片手だけ桃ちゃんの方に侵入することを許してくれた。


「応援しないけど、辛いときは頼っていいから」


 そう言ってくれる桃ちゃんに甘えて二の腕に頭を擦りつけた。


「うん。――ありがとう」


「お互い様。今日はありがとう」


 そして私と桃ちゃんは眠りについた。夜中に目が覚めて、翠さんの方を見るとまだ仕事をしているようだった。そっと起きて、お茶でも淹れようと思った。


 私は冷蔵庫まで歩くと、翠さんが振り返る。


「眠れない?」


「寝てました。でも…翠さんがお仕事してるから。お茶でもどうかと…」


「ありがとう。頂こうかな」


「冷たいのでいいですか?」


「うん。ミネラルウォーターだけでいいよ」


「はい」とガラスのコップを取る。


 どの器も二組ある。もちろんグラスも二組。


「今日は本当にありがとうございます。そしてごめんなさい」と言うと、翠さんは笑った。


 冷たい水が入ったグラスを渡す。


「そうだなぁ。徹夜かなぁ…。疲れたなぁ…。さっきマッサージしてたの、俺にもしてくれたらなぁ」


「はい。分かりました。寝転がりますか? それともこのまま座ったままで肩とヘッドマッサージしますか?」


 座ったままで肩とヘッドマッサージをすることになった。翠さんの肩は大きいから、私の手のひらでは収まりきらない。それでも一生懸命にほぐす。


「気持ちいい」と言って、目を閉じる。


 私は少しでも楽になって欲しくて、手がだるいけれどほぐす。


「頭を少し後ろに倒してもらっていいですか」


 頭の方に手を差し込んで優しくほぐす。パソコンを見ているから眼精疲労もあるだろう。こめかみもゆっくり押した。


 少し張った頬骨、くぼんだ目、整った唇に鼻筋が通っている鼻を見ながらマッサージをする。翠さんは目を瞑っているから私がじっと見てることには気が付かない。耳の後ろもゆっくりマッサージする。


(マッサージと称して好きな人の顔を思い切り触っているのは役得なのでは)と思いながら、念入りに揉む。


「すっきりする」と言って、翠さんが目を開けた。


「翠さん」


「ん?」


「好き」


 そう言ったら困ったような顔で笑う。鈴音ちゃんが好きな人に言う事じゃないけど、


「キスしていいですか」と言ってしまう。


 止まらない想いと口。翠さんの手が伸びて、私の後頭部を自分の顔に持っていく。軽く唇にキスをすると私は顔を離した。


 翠さんは後ろに倒れていた姿勢を戻すと、座ったまま私を抱き寄せて、キスをした。翠さんの匂いに眩暈がするから、シャツの胸あたりを掴んでしまう。翠さんの心臓がすぐそこにある。


「好きだよ」


 そう言ってくれる優しさが嬉しい。


「…お仕事頑張ってください」


「ありがとう。本当に疲れが取れた。じゃ、頑張って寝なさい」


 私は頷いて、翠さんの膝から降りようとした。でもまだ腕が解かれない。翠さんを見ると笑っている。


「絹を触りたくなるの、なんか分かる」


「え?」


 聞き返すと腕を解かれたけど、優しい笑顔があった。



 身体が揺すぶられて、名前を呼ばれる。


「絹、起きなさい。絹」


 お母さんの声じゃないと思って、目を開けると、桃ちゃんがいた。


「あ、おはよう」と言うと、口に人差し指を立てられて、反対側の手で私の背後を指さす。


 ゆっくり体を向き直すと、翠さんが寝ていた。


「え」と思わず上体を起こす。


「昨日…したの?」と桃ちゃんに訊かれる。


「してない。あ、夜中にマッサージはしたけど」


 変な笑いを浮かべるので「違うって」と慌てて否定する。


「とりあえず、着替えよう」と二人で洗面所に行く。


 夜中に起きて、ちょっとだけ肩を揉んでヘッドマッサージしただけ、ともう一度桃ちゃんに言った。


「まぁ、そういうことにしておきましょ」と言って、桃ちゃんはTシャツを脱ぐ。


「今日の予定は?」と聞くと「特にないけど…。お邪魔し過ぎてる気がするから、帰ろうかな」と言いながら素早く来ていたワンピースに着替える。


「確かに…。私は夕方からバイトがあるから…お昼の準備してあげたいし…。残ろうかな」


「尽くすねぇ」と頭をくしゃくしゃと撫でられた。


「一緒に居られる間は…一緒にいたいから」


「髪の毛してあげる」と言って、桃ちゃんはポーチを取りに戻る。


 その間に私もワンピースに着替える。汗臭いか一度匂いを嗅いで、多分、大丈夫だと自分に言い聞かせた。


 すぐに桃ちゃんが戻ってきて、私の髪を編み込んでアップルスタイルにしてくれた。


「絹はいつもポニーテールだけだもん。たまにはねぇ。はい。可愛くなった」と言うので急いで鏡を見た。


「わー。可愛い。ありがとう。でも…今日だけしか…」


「まぁね。後は自分で頑張るか…」


 私は何度もヘアスタイルを確認する。横で桃ちゃんが化粧を始めた。


「翠さん寝てるけど、用意済んだら、帰るね」


「あ、じゃあ。私も駅まで行く。スーパーに行きたいし」


「じゃあさ、軽くモーニング食べない?」


「えー、行きたい。行きたい」と言って、私も慌てて化粧をした。




 寝ている翠さんを起こさないようにこっそり二人で出ていく。鍵を持っているので、鍵もちゃんと閉めれる。


「鍵渡すって…相当ね」と桃ちゃんが言った。


「そうかな。きっと、すごく従姉妹の鈴音ちゃんのことが好きだったんだと思う」


「鈴音ちゃんの写真ある?」


「えっと…最後に会ったのは…大分痩せてたし…」と言って、スマホの写真アプリを検索する。


 最後に会った写真が出てきた。大分頬がこけている。


「これはちょっと病気してて痩せてるんだけど…」


 桃ちゃんはスマホを見て「綺麗な人…。絹に似てるけど、でも…」と口をつぐんだ。


「似てるけど、違うでしょ? 本当に綺麗で、素敵な人だった」


「絹はどっちかっていうと、可愛いというか、庶民的と言うか。私は好きよ。でも…従姉妹さんに声かけられたら、私、友達になれたかな」


「え? どういう意味?」


「綺麗だけど、すごく強い人だから」


 桃ちゃんの言うことは当たっている。


「桃ちゃんって、超能力者?」


「じゃなくても、意思が強そうな顔してる。こういう人は私もそうだけど、友達いない」と断言した。


 友達――。そう言えば聞いたことないかもしれない。


「だから翠さんのこと、全身全霊で愛せたのかもね」と桃ちゃんが言った。


 何だか自分のことを言ってるみたいに聞こえる。


 きっと桃ちゃんにとって、あの元カレはそうだったのかもしれない。


「じゃあさ、今の桃ちゃんは私がいるから、そこそこ満足してるってこと?」とふざけて聞いてみる。


「そこそこどころか大満足で、男がもう必要なくなりそう。奈々もいるし、本当にいらないかもね」と笑いながら言った。


「じゃあさ、奈々ちゃんに電話してみる?」


「あ、いいね」


 二人で電話したら、朝から二人でいることに驚かれ、そして「いいなぁ。三人で旅行しよう」と言われた。


 電話越しにはしゃいでいると、肩を叩かれた。振り返ると新太君がいて、その後ろに湊が立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る