第34話

代用品


 カーシェアリングの駐車場は翠さんのアパートの近くで、歩いて数分のところだった。


「着いたよ」と桃ちゃんに言われる。


 私は今起きたように、目を開けた。


「いい匂い」と言うと「変態」と頬を引っ張られる。


 でも桃ちゃんはいい匂いがする。甘い優しい匂い。体を起こして、抱き着こうとして、拒否された。


「もう汗くさいから」と言われて、私が臭いのかと慌てて自分の匂いを嗅ぐ。


「早く降りて」と翠さんに言われて、車から降りた。


「翠さん、これからお仕事するのに、お腹空いたりしませんか? 夜食作りましょうか?」


「いいよ。カレー残ってるし、今食べたら、多分眠ってしまう」


「あ、ごめんなさい」


「二人は寝てていいから。お風呂も好きに使って」と言って、先に歩く。


 私は桃ちゃんと一緒に歩いて、アパートに向かった。夜空は晴れていて、数個の星が見える。


「桃ちゃん、今日、頑張ったから、お風呂あがったらマッサージするね」


「えー、いいの? ありがと」


 私は翠さんに断って、桃ちゃんとコンビニに寄った。明日の朝ご飯やお泊りセットを買いに行ったのだった。


「絹? これいる?」と私に避妊具を見せる。


「え? 今日はしないよー」と慌てると「今日用じゃないよー」と桃ちゃんは私をからかう。


「もー、お菓子買う? アイスとか」と言って、二人で好きなアイスを選んで、翠さんの分も買う。


 でも翠さんがどんなアイスが好きなのかも分からない。


「歯ブラシ買おう」と桃ちゃんが言うから、私も選んだ。


「ねぇ…。私、翠さんのこと何も分かってない」


「うん…」


「ちょっとここでアイス食べてもいい?」と聞くと、桃ちゃんが頷いた。


 会計をして、イートインの椅子に座る。桃ちゃんはハーゲンダッツのアイスを食べて、私はコンビニ開発の桃のアイスキャンディにした。


「翠さん、いい人だって分かった。男前だし、優しいし…。でもやっぱり辛くなるんじゃないかなぁって、現状では思った」


「うん。分かってる。私も…翠さんの好きなものインドカレーしか分かんないもん。後…従姉妹の鈴音ちゃん。顔は似てるんだよ? でも中身が違い過ぎて…翠さん、時々失笑してる」


「失笑…。でも私から見たら、絹は可愛がってもらってる気がする」


「可愛がって? それって桃ちゃんも奈々ちゃんもじゃん。赤ちゃんみたいって…。いっつも」


「あ、起きてたな」


「…だって頬っぺたつつくから」


「じゃあ、私が翠さんに質問したの聞いてた?」


 頷く。でも翠さんの答えは聞こえなかった。桃ちゃんはバックミラー越しに目が合ったけど、逸らされたらしい。


「…未来はないのか、迷ってるのか、両方なのか分からないけど」とため息を吐く。


「いいの。別に。今一緒にいれたら、それでいい」


「なんか安いドラマみたいな台詞言うなぁ」と桃ちゃんに言われた。


「うん。私はいつもそうだけど。…今日、桃ちゃん、恰好良かったよ」


「ありがと」


「こんないい女振ったんだから、後悔すればいいんだ」と私が言うと桃ちゃんが笑った。


「振ったのは私」


「あ、そうだった」


「でもありがとう。何で絹が泣くかなぁって思ったけど、おかげで泣かずに済んだ。やっぱり最後はかっこいい女でいたかったから」


 桃ちゃんに食べかけのアイスを差し出す。躊躇なく食べてくれた。


「冷たっ。棒のは…」と言って「冷たくて」と桃ちゃんは涙を零した。


「…うん。歯に染みるよね」と私も大口で食べて、涙を零した。


 しばらく染みる、冷たいと言いながら、二人でアイスを食べながら泣く。


「ねぇ…翠さんの…溶けてない?」と桃ちゃんに言われて慌てて涙を拭いた。


「帰ろう」と言うと「うん」と桃ちゃんが笑顔を見せてくれる。




 翠さんの部屋に戻ると、すぐに玄関を開けてくれた。


「…遅いから心配したよ」と玄関で仁王立ちしている。


「あ、ごめんなさい」と謝ると「私の話を聞いてもらってて」と桃ちゃんも横で頭を下げる。


「無事に帰ってきたからいいけど…」


「翠さん、アイス、買ってきたから。えっと翠さんの好きなの分からなくて…チョコ? 買ってきました。バニラが良かった…ですか?」と必死に訴えると、困った顔で笑う。


「チョコでいいけど…。心配したよ。二人とも…」


「じゃあ、連絡先、交換したらどうですか?」と桃ちゃんが言う。


 ナイスアシスト、と心の中で叫ぶ。


「あ、そうだね」とあっさり連絡先をゲットできてしまった。


(桃ちゃん、ありがとう)と心の中で拝む。


 私はうきうきした気持ちで柔らかくなってしまったアイスを冷凍庫に入れた。桃ちゃんに先にお風呂に入ってもらう。鈴音ちゃんのロングTシャツを渡した。


 翠さんは仕事をしているので、コーヒーを淹れることにする。


(これでメッセージとか送り合えるかな…)と思って、そう言えば笙さんに返信するのをすっかり忘れていることに気が付いた。


 お湯が沸くのを待つ間に、ッセージを見ると、既読無視をしている状態だった。


「…」


 返事をするべきか、もう返事をしない方がいいのか…。友達だったら、遅れても返事する。友達だって言われたけれど、でもそれって期待を持たせることにならないだろうか、と画面をじっと見て考えてしまう。


『返事が遅くなってごめんなさい』


 違う。なんかまるで返事を待ってるでしょって言ってるみたいだ。


『今から寝ます』


 …だから? って思う。私なら思う。なんなら、もう寝るので、メッセージ送ってこないで、と思うかもしれない。


『今日は桃ちゃんと奈々ちゃんとご飯食べに行きました』


 これが妥当? かなぁと悩んでいる間にお湯が沸いたようだった。


『暑いですけど…』


 翠さんが勝手に私が用意しているコーヒーサーバーにお湯を注ぎ始めた。


「あ、私が…」と立つと「大丈夫。「ちょっと立ち上がりたくて」と言う。


「ごめんなさい」


「絹ちゃんはコーヒーいる? もういらない?」と振り返って聞かれる。


「大丈夫です。今日は本当にありがとうございました」


「うん。いいよ。二人とも仲いいね」と言ってくれる。


 私は嬉しくなって、もう一人奈々ちゃんという友達もいると話した。二人とも二回生になってから知り合って、自分から声をかけたのだ、と説明した。それまでの友達とは初日に会って、何となく一緒にいたけど、結局、しっくりこなかった。


「二人とも綺麗だから、ナンパしちゃった」と照れ隠しで笑う。


 翠さんが柔らかい笑顔で話を聞いてくれる。そしてすっと近づいたかと思うとキスをした。コーヒーカップをテーブルに置くのが横目で見えた。


(え? 桃ちゃんいるのに? あの箱、買うべきだった? え? でも…)


 戸惑いながらも翠さんの舌に応える。


 両腕で体を抱きしめられて、体温が上がる。すぐに離してくれるかと思っていたのに、その様子はなかった。背中の右手がゆっくり上って、髪に差し込まれる。ぞくぞくっと何かが身体を走った。


「あ」と思わず声が出て口が離れる。


 また近づこうとするから、私は俯いた。


(このまま続けたら、引き返せなくなる)と必死で自分の欲望に抵抗する。


「ごめん。…なんか、二人がいちゃいちゃしてるのみたら…羨ましくなって」


「へ?」と顔を上げたら、軽くキスされた。


「女の子同士ってあんなに触ったりくっついたりするの?」と真顔で聞かれた。


 確かに、奈々ちゃんも桃ちゃんも頬っぺた触ったり、腕組んできたりする。普通のことだと思ってた。


「と、とりあえず、離れてください。桃ちゃんが…出てくる前に…水飲みたいです」


 翠さんは私を欲情させるのが上手だということが分かった。きっと顔が真っ赤になっているはずだ。


「氷入れる?」


「たくさん入れてください」


 冷蔵庫に向かう翠さんの背中を見る。突然、キスされたのは驚いたけれど、桃ちゃんがいなければ、私は流されてた。それどころか、今、自分からその背中に抱き着きたくなるのを唇噛んで我慢している。そんなこと、湊の時は少しも思わなかったのに、と自分が怖くなった。


「…友達にね。君のこと、どうするのかって聞かれて…答えられなかった」


 氷がグラスにぶつかる音がする。翠さんが悩んでるのがよく分かる。愛してるのは鈴音ちゃん。私は似ている人だから。


「代用品にもなれないですか?」


 ミネラルウォーターを注ぐ手が止まった。代用品になんかなれるはずないか、と小さくため息をついて悲しい気持ちで言う。


「セフレ…はどうですか?」


 視線は落ちて、板張りされた床を見ていた。大小さまざまな傷がついている。大して経験もないのに、それもおこがましい気がしてきた。それでも側にいたくて、できることなんでも提案してしまう。


「家政婦…とか?」


 今まで以上に働いて、傷だらけの床もピカピカに磨いて。後、前みたいに仕事のお手伝いもして。


「便利屋」と言った時、また抱きしめられた。


 匂いに包まれると、息が苦しくなる。


「全部」と言われた。


「全部?」


 代用品であり、セフレであり、家政婦であり、便利屋? 全部? と私は顔を上げて翠さんを見た。思いがけない優しい笑顔で見ていたから、私は言葉が出ない。鈴音ちゃんがいなければ、愛されていると勘違いしたかもしれない。


「全部欲しい」


 今一いまひとつ分からないけれど、側にいていい気がしてほっとした。


「ただ…いい人が出来たら、気にせず好きにしていい」


 相変わらず、私を束縛する気はないらしい。だから恋人にはなれないってことなんだな、と思った。翠さんの中から鈴音ちゃんは絶対に消えることはない。


 翠さんがくれた水を飲んで心を落ち着かせる。私が飽きるまで一緒にいていいってことなんだな、とそう解釈した。


 桃ちゃんが出てきたので、代わりにお風呂に入る。


 私はまた笙さんへの返事をしそびれた。

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