第32話
恋愛トラブル
ゆっくり唇が離れた後、翠さんに見つめられる。胸が苦しくなった。
「…帰る?」
「はい」
「良い言い訳、思いつかないよな」と言われて、私は頷いた。こっそり出てきたのだから、こっそり帰っておかないといろいろ困る。
「朝までに戻らないと…」と言って、壁の時計を見る。
「そうだね。…今度は朝まで一緒にいたい」
重ねていた手の指をからめて、ぎゅっと握られる。
なんだろう。本当に愛されてる気持ちになるから、わがままを言ってみる。
「…翠さん、旅行…行きたい」
「約束してた…ね」
少しも手を離してくれない。翠さんは少し笑って「帰る?」とまた訊いた。
「帰ります」
そう言うと、おでこにキスをして体を離してくれた。
「シャワー使って」と言われる。
「はい」と言ったものの、翠さんの匂いを消すのが何だかもったいない気もした。
終わった時は汗だくだったけれど、今は汗も引いていた。それでもお互いシャワーを浴びると、呼んでくれたタクシーで家まで戻った。こっそり音を立てずに部屋まで戻る。
そしてベッドに飛びこむと、私はさっきまで一緒だった翠さん匂いを確かめた。手の平を目の前に出す。翠さんが握ってくれた指…。長くて節を感じる指だった。
そして初めて感じる快感も思い出すと眩暈がする。翠さんの息が上がった熱い吐息が体温を上昇させた。
顔を枕にうずめる。洗い流したはずの翠さんの匂いがする気がした。
反芻すると、眠れそうにない。私はため息を吐いた。明日、桃ちゃんか奈々ちゃんに話を聞いて欲しい。でも冷静に考えて、そんな話、聞きたくないだろう、と思うけれど、自分一人では受け止められない。眠れない時間を過ごしていると、明け方を迎えて、ようやく私は眠りについた。
お昼になって、お母さんがドアをノックする。
「具合悪いの?」と聞かれた。
「あ…。少しだけ。でもバイト行かなきゃ」と慌てて起きる。
「無理しないで、休む連絡したら?」
「ううん。…お店無くなるみたいで…。だから休まず行く」
「そう?」と言って、お母さんは出て行った。
私は素早くワンピースを来て、髪の毛をゴムでくくった。鎖骨当たりに赤いキスマークが見えて、慌てる。他にもどこかないかと確認してしまった。コンシーラーを取り出して塗って、ごまかす。うっすらピンクが透けて見えた。
翠さんは好きだと言ってくれたけれど、それはっきっと思いやりで、リップサービスみたいなものだ。
それでも私は嬉しかった。いろんなことが嬉しくて、頬が赤くなる。
桃ちゃんから「おはよー。今日、バイト?」とメッセージが来ていた。
「そうなの。六時までバイト。でも話したいことあって」と返事を送っておく。
ご飯を食べて、バイト先に向かう。オーナーが常連さんにお店を閉めることを言ったようで、今日はたくさんケーキが売れた。
忙しくしていると、時間はあっという間に過ぎて、もうすぐバイトが終わる時間に桃ちゃんと奈々ちゃんが顔を見せに来てくれた。
「あ、いらっしゃいませ」と私は営業スマイルを見せる。
「桃ちゃんから絹のバイト先に行こうって誘われて」と奈々ちゃんが言う。
「わぁ、嬉しい」と言うと「バイト終わるまでケーキ食べて待ってる」と桃ちゃんが言ってくれた。
二人がケーキを選んでいると、新太君が来てくれた。
「あ、お久しぶり」
「そうだね。結構来てるのに、なかなあ会わなかったね」と新太君が言ってくれる。
二人に新太君を紹介した。そして二人が友達だと新太君に教える。なぜか三人一緒のテーブルに座った。私はバイトが終わるまで、加わることはできなかったけれど、バイトが終わるやいなや、急いで着替えて、三人のテーブルにつく。
「絹ちゃん、合コンでいい人みつけたの?」と新太君に聞かれた。
「あ、えっと…。うん。でもまだ…何も」とちょっと言いにくくて、ごまかしてしまう。
「湊は知ってるの?」
「ううん。会ってないの。元気にしてる?」
「いや…なんか、複雑で。麻衣が湊の子を妊娠したって騒いでて」
「えー」と三人の声が新太君の話を止めた。
それで湊は別れるつもりだったのに、別れるのが難しくなったと言っていた。今はまた実家に戻っているらしい。それで最近、翠さんの家の付近で見かけることがなかったんだ。
「そっかぁ。でもまぁ、もう絹は新しい人がいるからね」と奈々ちゃんが言う。
新しい人って誰のことだろう、と聞いてみようと思った好きに、桃ちゃんが「素敵な人だからねぇ。羨ましい」と言われた。
笙さんのことだろうかと考えていると、奈々ちゃんに「ご飯行こ」と腕を取られる。
二人に強引に外に連れ出された。そして駅までの道を歩き始める。
「な、なに?」
「もう、湊に関わるのやめな」と奈々ちゃんに言われる。
桃ちゃんも頷く。
「湊の友達だから、きっと新しい人の話は湊に話が行くと思う。もう絹のことは諦めてもらおう」
「え?」
二人はきっぱりとそう言った。
「…やっぱりさ。心揺れる人って、ずっとそうだから」と奈々ちゃんが言う横で桃ちゃんは頷く。
「そうかな。でも私、もう湊とは無理だよ」と言って、昨日のことを話したら、二人が大声を上げた。
通り過ぎた人が振り返って見る。
慌てて二人に「声が大きいよ」と注意した。
「だって、したんでしょ? それに…」と奈々ちゃんが言って、桃ちゃんも「ほんとに? 気のせいじゃなくて?」と言ってくる。
頷くと、二人は顔を見合わせた。
「話したいことって、それ?」と桃ちゃんに訊かれた。
「うん。そう…なの。あの…びっくりして」
奈々ちゃんが頭をぽんぽんと軽く叩く。駅について、どこに行くという相談もなくそのまま改札をくぐる。繁華街へ方面のホームに向かった。
「困ったことに、良かったんだねぇ」と言う感想をくれた。
困ったことになるんだろうか、と思って、桃ちゃんを見た。
「…離れにくくなるねぇ…」と桃ちゃんも頭をぽんぽんする。
離れにくく…。
いつかは離れなきゃいけないのだろうか、と私は哀しくなった。
「親御さんに言いにくいじゃん?」と奈々ちゃんが言う。
それはそうだ。
「辛くなるよ?」と桃ちゃんが言う。
「…でも、昨日は…幸せで」
私はどうして分かってくれないの? というまるで子どもじみた気持ちになる。
「絹…。でも止められないんでしょ? 夜中に家を抜け出すくらいなんだから」と奈々ちゃんが私の頭を腕に抱いた。
電車が到着するアナウンスが流れた。
「泣いたって、知らないんだからね」と横からぎゅっと桃ちゃんに抱き着かれて、私は二人にきつく挟まれた。
体温が苦しい。
西から電車がやって来る。まだ陽が落ちる時間には少しあった。
「…ねぇ。辛い事があったらすぐ言うんだよ」とさっき知らないと言った桃ちゃんが言う。
「後、避妊は絶対」と奈々ちゃんが言って、私は翠さんに避妊推奨されたことを思い出して、胸が詰まった。
「…二番目だから」
私との赤ちゃんは欲しくないんだ、と思った。
電車のドアが開く。二人が体を離してくれて、そして車内の冷気が体を冷やす。
「何が?」と奈々ちゃんが電車の中で聞く。
「…赤ちゃん、いらないって」
「そりゃ、そうだけど」と奈々ちゃんが桃ちゃんを横目で見る。
「従姉妹さんにはいたの?」
ドア付近で三人で固まって話す。
私は翠さんに元奥さんとの間に血のつながりのない子どもがいること、そして鈴音ちゃんとの間に生まれてこれなかった赤ちゃんがいたことを話した。
「いろんな意味で、もし絹がその人との赤ちゃんを作ったら二人目になるのか…」と奈々ちゃんは感心したように言う。
「で、ショックだったんでしょ? 従姉妹とはそうしたのに、自分とはいらないって言われて」と桃ちゃんがダイレクトに私の気持ちを代弁する。
「…うん」
「でも思ってたよりいい人そうね」と奈々ちゃんが言う。
「そうね。私も職場の若い子に手を出して、奥さんにばれて…っていうのかと思ってた。奥さんの方が浮気してたなんてね」
鈴音ちゃんを愛したように私を愛してくれるはずはないと分かっていたのに胸が苦しくて辛い。
「それで、絹は結婚まで考えてるの?」
桃ちゃんに訊かれて、どうしていいのか分からない。
「け…こんがどういうものか分からないけど、ずっと側にいたいって…思う気持ちがそうなら、そう…かも」
「うーうーうーん」と盛大に桃ちゃんが悩む。
「そりゃ、結婚なんてまだ…分からないわよ。私だって」と奈々ちゃんが言う。
駅が近づくのでドア付近から中の方へ移動する。
それから奈々ちゃんの彼氏の就職活動の話にもなったし、桃ちゃんの合コン相手の人より英さんと連絡が取る方が多くなったと教えてくれた。そんな話で盛り上がって、パスタ屋さんに向かう。ここはパスタもおいしいけれど、手作りジェラートが本当に美味しい。
「付き合っちゃおうかなぁ」と桃ちゃんが言う。
「いいじゃん。どうしてすぐに付き合わないの?」と私が訊くと、
「奈々の彼氏の友達だから。もし…上手く行かないとなんか気まずいかなって」と桃ちゃんは本当に周りに気を使える大人だ。
「…じゃあ、笙さんのこと…」と言うと、奈々ちゃんが「うちの彼はそんな心狭くありません」ときっぱり言う。
「まぁ、三人でこれからも集まる時にそれこそ結婚して、家族ぐるみで会えるのはなんかいいじゃん」と奈々ちゃんが言う。
「それ良い」と桃ちゃんが言うから、何だか羨ましくなって、笙さんと付き合う方がいいのかと一瞬考えてしまう。
「きーぬー。こっちおいでー」と奈々ちゃんが手招きをする。
「もー」と言いながら、うっかりそっちに流れようと考えた自分を戒める。
でも二人にはばれているようで「いつでもおいで」と笑われた。
私の大好きな友達。
「二人と結婚したいよー」と言うと、二人に笑われた。
桃ちゃんがトイレに行ってる隙に奈々ちゃんが「お泊りのアリバイ、私のこと、いつでも使っていいからね」と言ってくれた。
「桃はね。本当に絹のこと…心配っていうか、可愛く思ってるから…。反対してるけど、まぁ、気持ち分かってあげて」
「うん。分かってる。奈々ちゃんもありがとう」
「いーえ。それと…桃、元カレから待ち伏せされたりしてるみたい」
「え? ストーカーになってるってこと?」
「自分が連絡してこなかったくせにね。いざ別れたら気になるんじゃない? あぐらかていたのよ。桃ちゃんが全て合わせてたから」
「…知らなかった」
「だから、今日は早めに解散しない?」
「うん。分かった。…私心配だから、家まで送ろうかな」
「え? 絹がガードマン?」
「ガードマンっていうか…」と言ってると、桃ちゃんが帰ってきた。
「何話してるの?」と言うから、私は桃ちゃんに抱き着いた。
「なに? 何?」
「今夜は離さないから」
「どーしたのよ?」と呆れた声がする。
「桃の元カレの話しちゃった」
「もー」と桃ちゃんが私の頭をぽんぽんと叩く。
「大丈夫よ。カラオケ行こう」
「行く。オールする」としがみついたまま言うから笑われた。
「ほら、ジェラート食べよう」と奈々ちゃんがメニューを差し出す。
ジェラートにつられて体を離すと二人に笑われた。
奈々ちゃんは彼氏のお迎えが来たので、食事の後に解散となった。私は嫌がる桃ちゃんと一緒に帰ろうとして、電車に乗ろうとした瞬間、桃ちゃんが「元カレ」と呟く。
「え?」と言うと「このまま乗って」と一緒に電車に乗る。そして「扉しまります」のアナウンスで一緒に飛び降りた。
「どういうこと?」
「横の列にいたの」
「え?」
「行こう」と手を繋がれて、反対側のホームに向かう。
「桃ちゃん、GPS入ってるかも?」
「え? 何に?」
「携帯アプリか…、プレゼントされたもの…」
「あー、携帯…うっかりしてた。付き合い始めの頃、アプリでお互いの位置が分かると便利だって、入れてたの。消してない」
慌てて削除して、全ての位置情報をオフにする。
「どうしよう?」
「すぐに戻ってくるかも…」と私はカラオケに行こうかと思った。
「大丈夫、帰れるから」と桃ちゃんは言う。
「あ、じゃあ、じゃあさ、翠さんの家に行かない?」
「へ?」と桃ちゃんが変な声を出す。
翠さんの家は近い。電車のホームも今のところで丁度あってる。来た電車に乗る。
「この電車に彼いたりして…」と桃ちゃんはきょろきょろ見回す。
「大丈夫、この電車は快速だから、次の駅で降りたとして乗れないし、快速の止まる駅はまだ先だから」と言うと感心された。
「絹ってそう言うところ頭回るよね。恋愛はお子様なのに」
「ん? 褒められてない?」
「でも勝手に行っていいの?」
「鍵持ってる」
「そういうことじゃなくて」
「…翠さんと連絡先交換してないの」
「え? 鍵あるのに?」
そう。私は連絡先をもらっていない。ただ鍵を渡されただけだった。
「行って、いないかもしれないし」
桃ちゃんは不思議そうな顔をする。
「まぁ、顔見てみたいっていうのもあるから…行く」と言った。
駅に降りて、お土産としてシュークリームを買う。そして二人で翠さんの家に行くという考えられなかった行動をしているのが不思議だった。
「今日、絹に話を聞いて、悪い人じゃないって分かったけど…」
「うん。本当にごめん」
そう言って、私は桃ちゃんの腕を取って歩く。
「どうして恋愛初級がそんなこと…」と俯かれた。
「う…ん」
小道に入ると桃ちゃんが「すごい。なんか不思議な道だね」と言う。
小道を抜けるとアパートがある。手前に自転車置き場があって、大きな木も植えられていて、余裕のあるその空間が空いていて不思議だった。
「私が大家なら、敷地ぎりぎり使ってマンション建てるわ」と桃ちゃんが言う。
灯りがついているようなので、翠さんは在宅している。
二人で階段を上る。
私はインターフォンを押すと、翠さんが出てきた。そして桃ちゃんを見て、少し驚いていた。
「あの…お知恵をお借りしたくて。親友の桃ちゃんです」と私は翠さんに言った。
カレーの匂いがする。まだ昨日のが残ってたんだ、と私はそんなことを思いながら翠さんを見上げた。
「どうぞ。カレー食べる?」と聞いてくれる。
食べたばかりなので、お断りすると、少し残念そうに笑った。
アイスティをいつものように作ってくれる。桃ちゃんは珍しそうに部屋の中を見回した。私は翠さんに桃ちゃんが元カレにストーカーされていることを説明した。
「…ストーカーねぇ」と言いながら、アスティを差し出してくれる。
「GPSアプリを入れたの忘れてて…」と桃ちゃんが言う。
「どうしたら改心しますか?」と私が訊くと、翠さんが困った顔をした。
「改心なんて…なかなかできないよ。今日は車で送ってあげるから…」
翠さんはカーシェアリングを使っているから、車が空いているか検索していた。
「あ、桃ちゃんの居場所が分かるってことは相手の居場所も分かるんじゃない?」と私が訊くと「そうかも…」と桃ちゃんは顔を上げた。
「相手が位置情報を切ってなかったらね」と翠さんが付け加える。
「そっかぁ」と私はテーブルの上に頭を投げ出した。
何かいい方法はないか、と思っていると、桃ちゃんの携帯が鳴る。知らない番号らしいけど「これ、彼だ」と言った。
「出ようか?」と翠さんが言う。
「え? ややこしくならないですか?」
「まぁ…なる…かな」と言ってる間に桃ちゃんが出た。
そしてなぜか不思議な組み合わせで桃ちゃんの元カレと対決することになった。
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