第31話
氷の溶けたアイスティ
鈴音ちゃんが鞄一つで家を出てきた時にはまだ離婚の話が進んでいなかった。顔を合わせば喧嘩ばかりしていたというのに南さんは離婚に同意しなかった。
「漣の父親になるって言ったじゃない。今更、好きな人が出来たって言われても納得できない」
「好きな人の前に、俺たち破綻してただろ」
「漣はどうするの? あなたのこと大好きじゃない」
まだ幼い漣君は訳も分からず泣き始めた。
毎日、その繰り返しに疲弊して、以前にも増して仕事場で寝泊まりするようになる。でも仕事場には家出した鈴音ちゃんが泊まっている。二人で来客用のソファに寝るのも狭いので、翠さんは寝袋で床に寝ていた。ソファから鈴音ちゃんの白い手がふわふわと翠さんの髪の毛を触るのがくすぐったくて、辛い毎日だったのに、気が軽くなったと教えてくれた。
「鈴音…部屋、借りようか」と言って、二人で探したのが、今のアパートらしい。
「大きなベランダが素敵」と鈴音ちゃんが気に入ったから決めたらしい。
きれいなマンションじゃないけれど、先のことを考えて、低予算で新生活を始めることにした。独立したばかりで、仕事は軌道に乗っていたとは言え、どうなるか分からないのが自営業だ。
帰ってこない翠さんに業を煮やして、奥さんが仕事場に何度も来るようになった。鈴音ちゃんも仕事を手伝っていたが、翠さんが裏口から逃がしたりしていた。それで仕事にも支障がきたすようになったので、翠さんはもう弁護士を立てて、お金で解決しようと決心する。
漣君にも
「いつでも会いに来ていいし、お父さんは会いたいと思ってる」と伝えた。
そしてできる限りのことはするつもりだと弁護士に相談し、結局、南さんの両親も間に入って、決着がついた。ただお金も無くなったし、奥さんの度重なる仕事場への来訪せいで、翠さんの仕事に影響が出た。事務所を維持することができなくなり、最低限の荷物だけアパートに移して、細々とすることになった。
「それでも鈴音と一緒にいられて幸せだった」
鈴音ちゃんは漣君に会えなくなった翠さんが淋しそうに思えたからなのか
「家族、作りましょう」と言ったらしい。
まだ鈴音ちゃんの両親に結婚を認めてもらうどころか挨拶もさせてもらえない時だった。
「でも…」
「私、勝手に出てきたんです。もう親に言わなくてもいいんです」と笑顔を見せてくれたのが忘れられないと翠さんが言う。
「そういうところは肝が据わってるというか…」と懐かしそうに微笑む。
「ほんと、すごいと思います。いつも大人しいのに」
もう汗をかき切ったアイスティは氷がなくなっている。
「…今でも鈴音ちゃんのこと…」
「愛してる」
分かり切ったことをどうして、今、聞いたのだろう。私はどうして夜中にこんなところまできたのだろうと思うと、少し悲しくなった。
「指輪…翠さんが持っててください」
「ありがとう。絹ちゃん、遅くなったから、タクシー呼ぼう」
「あ、大丈夫です。ちゃんと…帰れます」
「終電終わったのに?」
「はい。近くに友達も住んでて。えっと、今から行こうかなって…」と言いながら、私は涙が零れた。
「絹ちゃん…。きっといい人に会えるから」
事実上、これはお断りの言葉だ。
「はい…」
携帯にメッセージが届く。きっとバクテリアの写真と短文だ。私は鞄からスマホを取り出す。想像通り、バクテリアと笙さんからのメッセージだ。
『今日は暑かったみたいだから、睡眠を充分にとって。返事不要で、いい夢見てね』
優しい人からのメッセージだ。
それなのに…。
「私じゃ…駄目ですか」
そんなことを口走ってしまう。
「絹ちゃん…だから駄目なんだよ」
私は翠さんを見上げる。零れる涙を翠さんが人差し指で拭いてくれる。
「遊びじゃ、付き合えないから…。俺はもう誰かを幸せにしたり、されたりしちゃいけない人間だから」
翠さんの手を掴んで、下す。
「違う。そんな人じゃない。翠さんは」
震える声を必死で隠して言う。
「幸せになれる人」
でも涙は隠せなかった。
「だから」
涙だけじゃなくて、鼻も緩くなるから、慌てて手の甲で鼻を隠す。
「好きになってもいいですか」
困らせてる自覚はある。でも私は翠さんに日の当たる場所にいて欲しい。優しくて、傷つけあってしまった過去も、後悔した日々も、いつくしんだ時間も、深い悲しみからも、もう捉われないで欲しい。
「ううん。もう…好きになって…て」
翠さんを困らせてるのは罪だと思う。それでも私は揺さぶりたかった。
「どうしたらいいですか?」とさらに困らせた。
自分で言ってて、本当にひどいと思った。それなのに、翠さんは笑って、私の頭を撫で始める。
「それは嬉しいけどね」
首を横に振って、翠さんの手を振り払う。
「鈴音とは違うけど、頑固だな」と翠さんが真面目な顔で言う。
私は鞄の中を漁って、銀色の四角い避妊具を取り出す。
「頑固…なので、これ、使います」
さすがにため息をつかれた。
「後悔するよ」
「後悔させてください」と私は身を乗り出した。
後悔もさせてくれないなんて、そんなのずるいとなぜか思った。傷ついた翠さんを置いて、私だけ無傷で優しく振られたくなんかなかった。
「布団なんだけど…いい?」
「はい」
私は布団が整えられる間、ただ心臓が体を支配しているみたいで、何も考えられずに動けなかった。ドクドクドクと血が流れる音が全身をめぐっている。
「お風呂…」
「入ってきました」となぜか用意周到な返事をして、また笑われた。
翠さんはお風呂に入ってくるから、と言うので、私はどうしていいのか分からない。お布団の中で待っているのがいいのか、待っているとしたら、服はどこまで脱いだらいいのか、そんなことを考えて、結局何もしないまま、ずっとテーブルの減らないアイスティとにらめっこすることになった。
どうしよう、硬直し過ぎて疲れて来てしまった。
(翠さん、早く出て来て…いや、まだ出てこないで)と心が少しも定まらない。
ガチャと音がすると、私の肩が跳ねた。
「絹ちゃん、疲れたでしょ? もう寝なさい」とあっさり言われる。
濡れた髪をタオルで拭いて、出てくる翠さんが声をかけてくれるけれど、緊張しすぎて本当に動けない。
「…絹ちゃん? ほら、布団二組あるから。奥のが…鈴音が使ってたので」
あまりにも動かない私を見て「どうしたの?」と顔を覗き込む。
「緊張で…」と小さい声で言うと、吹きだされてしまう。
「ほら、もういいから。そんなに頑張らなくて、もう寝よう」とお姫様抱っこされてしまった。
あぁ、ダイエットしてくれば良かった。今日、お姫様抱っこの予定はなかった。そんなことを考えながら、布団まで気を紛らわせる。そっと横たわらせてくれる。
「鈴音のパジャマ出そうか?」と聞くので、首を横に振る。
「…鈴音ちゃんの服で抱かれたくないです」
「え? まだやる気あるの?」と呆れられる。
やらないんだったら、今までの私の緊張を返して欲しい、と謎に怒りが湧いて来て、私は上半身を起こす。
「やる気満々なんです」と言うと「そう言うこと言わない」と諭された。
私はもう埒が明かないと思って、ワンピースの背中のファスナーを下そうとする。
「絹ちゃん。後悔しない?」
「してもいいです」と胸を張る。
ファスナーがすっと降ろされた。肩を滑ってワンピースが落ちた。
「嫌だったらすぐ言って」
私は頷いた。
頬にキスされる。首にも肩にも。
鈴音ちゃんのこと思い出してるかな、と思いながら、目を開ける。
「翠さん」と名前を呼んで、肩から二の腕を手のひらで辿る。
「ん?」と私を見た。
自分から体をもたせかける。このまま溶けて一緒になったらいいのに。そしたら傷がきっと半分になる。二人で分けられたら少しはましになるのにと思いながら、頭を擦りつける。
「翠さんがして欲しいこと…言ってください」
しばらく考えて「キス」と言われた。
顔を上げて、自分から近づく。唇を合わせると、翠さんの舌が入ってくる。ゆっくりと何かを探すようだから、私は自分の舌を少し出した。優しく繰り返される触れ合いはもどかしくて切なくなる。翠さんの髪の毛に手を差し込んで、息が切れるほど繰り返す。苦しくて顔を離すと
「キス…どうして?」と私は聞いてみた。
「この前のキス…すごく良かったから」
そう言われて、恥ずかしくなる。
「でも…引き返してもいいよ。まだ、今なら」と翠さんが言うから、私は自分で下着を脱いだ。
「私が無理」と言って、翠さんの首に腕を巻き付けた。
翠さんの心臓に触れた気がする。お互いの心臓の動きが肌の上から伝わる。
「無理…。確かに」と言って、私をゆっくり押し倒す。
背中に当たる布団に私はごめんなさい、と謝る。鈴音ちゃんの使っていた布団の上だったから、私は体を捩って、翠さんの布団の上に移動する。
「…絹ちゃん、ごめん」と翠さんに謝られた。
「ううん。私じゃなくて、鈴音ちゃんに…謝って」
二人の間にはいつも鈴音ちゃんが存在している。
「それは…ごめん」
優しくゆっくり愛される。
「絹ちゃん」
嘘でも好きだと言って欲しい。
「好き」と自分から言った。
「かわいい。好きだよ」
ちゃんと付き合って言ってくれる。私は翠さんの頬を撫でる。嘘を言わせてごめんなさいと思いながら。
そして私は避妊具を渡す。
「私は…赤ちゃんはまだ…作れなくて…」
「ううん。俺も困る」
何だかそう言われて、僅かに傷ついた。鈴音ちゃんとは…と嫉妬してしまう。避妊具をつけてから
「やめようか」と言われる。
「嫌」
「俺も」と言って、翠さんが私の中に入ってきた。
不思議な感覚だった。何だかこの時を待っていたような、心が満たされる安心感があった。
「あったかい」
翠さんにそう言われて「そうだ、その通りだ」と思って頷いた。
体温と湿った皮膚から匂いが立つ。私はその匂いに包まれて、幸せだった。
そして穏やかな波が繰り返すように、私は揺れた。心地良い波が次第に大きくなって、私は初めてセックスで感じた。
驚いて翠さんを見ると、目を細めている。
「あ…わ…私」
「じゃあ、一緒に」
大きな波が余韻になっていたのに、また寄せる波が体中を襲った。翠さんの汗ばむ背中にしがみつく。流されてしまいそうだった。
「絹…好きだ」
その言葉にも溺れてしまって、声を上げてしまった。
好きも言えずに、ただ声が漏れた。天井が歪む。
汗と匂いに包まれて、幸せなのか悲しいのか分からないまま…息が上がり、翠さんを見ると、キスされた。
(後悔してる?)
そう聞きたかったのに、塞がれて聞けない。
聞いてはいけない気がした。私はもう好きで仕方がない。だから振り返るのは辞めた。
静かな夜にキスの音が耳に響く。セックスが終わっているのに、翠さんは私の手をぎゅっと握ったままキスを繰り返す。
夜がこんなにひそやかに近くにあることを初めて知った。
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