第12話
別れ話
時間稼ぎの冷しゃぶうどん。
最後に二人で食べる食事が冷しゃぶうどん。
もっと手間のかかる、時間のかかる料理だったらいいのに。思い出の料理がこんな簡単なものになるなんて、と私は哀しくて笑った。
すぐに出来上がってしまった冷しゃぶうどんを並べる。
「湊…ごめんね。湊が辛かったのに、…私、逃げてばっかりで…何にもしてあげられなかった」
それはそうだった。辛いばっかりで自分を優先してた。
「絹ちゃんは悪くないし。俺が情けないだけで。本当にごめん」
「もう、やめよっか。謝るの。最後はいい時間にしたいから」
「…絹ちゃん」
「湊、ありがとう。私、最初に付き合った人が湊で良かった」
「…絹。俺も…」
「さ、食べよう」と言って、私は胸がいっぱいになって、箸でうどんを掬うと涙が零れてしまった。
「ご…」と言って口を覆う。
ティッシュを水を置いてくれる。湊は優しい人だった。だからきっといろんなことに耐えられなかった。ちょっと涙を拭いて、また食べ始めた。もう喋らずに食べないと、また涙が零れそうになる。
湊も無言で食べた。
食べ終えて、簡単な料理なのに「美味しかった」と言ってくれた。
お皿を流しに持っていくと「俺が洗うよ」と言う。
「ううん。洗って帰るね」とスポンジに洗剤をつける。
湊が後ろから抱きしめてくる。汗と湊の匂いがする。
「…絹。大好きで、大好きで…。でも…苦しくて」
「ううん。私も。苦しい。湊、優しいし…。すごく甘やかしてくれて。それに甘えて」
「もっと強くなったら…」
「なれるよ。湊は優しくて、強くなれる」
私はスポンジをシンクに置いて、振り向いて湊にキスをした。湊の体温、熱さ、湿度、匂い、こんなにも慣れてしまったのに、と胸が軋む。
「…絹」
私から湊のTシャツの中に手を入れた。最後に、なんて陳腐なことは言わないけれど、やってることは「最後にもう一回」だった。
最低だなと思った。湊に忘れられないようにって思ってる。
シンクの前でお互いの素肌を探る。
「汗…」と私は湊に言った。
「いいよ」
そう言ってくれると思ってた。全部、湊は受け入れてくれると思ってたのに。
湊の舌が首筋を這う。体は欲しいと思ってくれるんだ、とぼんやり思った。
「湊…」
別れたくないって言ったら、体を離すだろうか、と考える。考えながら、私は湊の肩にキスをした。
それともつながっている最中だったらどうなんだろう、と思った。
「絹…好きなんだ」と強く抱きしめられた。
「私も」
でも湊はもうきっと耐えられないんだと思う。私を傷つけてまでも別れを選んだのだから。私の指が湊の汗ばんだ背中を辿る。
「強くなるから…。もう一度…その時」
湊がまた私に? と思った。
「不安だよ」と正直に言う。
一度別れて、また復縁なんて簡単にできることじゃない。だから本当はこの関係をずっと大切にして欲しかった。私も湊を支えたかった。力不足だったけれど。
電話が鳴る。お母さんからだった。
「湊…。私…泊まっていい?」
「絹…」と強い力で抱きしめられた。
「…別れたくない」
情けないことを言ってる自覚があった。それでも止められなかった。
「こんな…ことで…。終わりなんか…」
私も湊も乗り越えられない壁が低すぎて、恰好悪い。恰好良いとか、悪いの問題じゃないのは分かってるけれど、悔しかった。
「したく…なくて…」
涙を零しながら言う自分が一番恰好悪い。
「でも…湊が…いっぱいいっぱいなの…すごく分かるから…」
湊にキスをする。涙の味で、でも熱のこもった。
「…私ができることって…別れること」
湊が私の頭を抱えて、くしゃくしゃしてくれる。
「だから」
そう今は湊が元気になることが最優先だった。
また電話が鳴る。
「絹ちゃん、帰ろう。これ以上、絹ちゃんを傷つけたくない」と湊が体を離す。
「湊…」
「本当はセックス…苦手なの知ってる」
私は驚いて湊を見た。
「でも我慢してくれて、そういうところも本当に可愛くて…。でも今日したら…自分を許せなくなる」
「ううん。いい。湊が喜んでくれると思ったら…私」
また抱きしめられた。
「大好きだ。優しい気持ちも…全部、ありがとう」
「して欲しいって思った時は、してくれないんだね」と私はセックスについて初めて文句を言った。
そしたら湊は笑いながら「したいよ。何度でも」と言う。
「何度もって…それは」
「大変だった?」と訊くから素直に頷いた。
「ごめ…は言えないから、ありがとう」と言う湊の変な返しで私は笑ってしまった。
「でも、セックスで好きなところがあったよ。終わって、湊がぎゅっとしてくれるところとか」
「…そっか。良かった」
「まだ…分かんなくて。でも湊の匂いとか温かさとかそう言うの感じられるのは大好きだったから」
「やっぱり絹ちゃんは可愛い」
「でしょ? いいの? 本当に? 手放して」
「嫌だけど」
「どっち」
そんなことを繰り返して、でももう別れしかないんだなって私は思った。
「新婚旅行も、銀婚式も、違う人とするの?」と私は訊いてみた。
「しないよ」
「なに、それ」と言ったら、湊が立ち上がって、机のところから何かを持ってきた。
「これ…」
渡されたものは小さな四角い箱で、開けると小さなダイヤの指輪が入っていた。
「え? これ…って?」
「バイト代貯めて、買った。いつかもっと大きいの渡そうと思って」
湊はそう言って、照れた顔で笑う。
「こ…ん…なの」
「旅行行くって言ってたから、そこで渡そうと思ってたんだ」
湊の方を向いて、私は泣いてしまった。もう号泣だった。悔しくて、自分のことばかりで馬鹿だった自分、そして湊の気持ちまで考えられなかった悔しさで泣いてしまった。
「も…う。…今日は…帰れない…じゃ…な」
「…うん」
私はお母さんに泣きながらメッセージを送った。
『今日は帰りません。湊の家にいます』
お母さんから『了解』とだけ返ってきた。
その晩、私は湊に抱きしめられながら夜を過ごした。初めてだった。セックスのない夜は。
規則正しい心臓の音を聴きながら、湊の匂いに包まれながら、涙が零れ続けた。湊はずっと頭と背中を撫でてくれている。こんなことされたら、私が一生、湊のことを忘れらなくなる。
明日の朝になったら、もう恋人同士ではなくなる私の左手の薬指にはあの指輪がはめられていた。
「湊…。ありがとう」
「うん。こちらこそ、ありがとう」
言葉が薄くなって、消える。夏の朝日は早い時間に差し込んでくる。私はそれを吐きそうになりながら見ていた。
駅まで送ってくれる。湊に私はバイバイした。
「元気で」
「うん。絹ちゃんも」
いつまでも改札口に立っている湊を振り切って、私は電車に乗る。早朝でも通勤する人が多くて、私は泣くこともできなかった。ただ家にも帰れずに私は途中で降りて早朝からやっているファーストフード店で涙を流した。
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