第36話
覚悟
地方にコンサートがあって、週末だと莉里が行けるから一緒に来てもらう。電車に乗って、のんびりと移動する。
「お城?」
「お城で演奏するんだって」
「へぇ…。すごいねぇ」
「うーん。すごく響くとは思うけど…。壁が石だから」
「また何人かでするの?」
「そうだね。何人か…っていうか、オケもあるし。お祭りの一環だから」
莉里はそう言うと、微笑んで「すごい」といつも褒めてくれる。もっともっと有名になって、いろんな場所に莉里を連れていけたらいいな。収入も安定できたらいいのに、と俺は思った。
「律…。旅してるみたい」
「え?」
「なんか、こうして外国で二人で旅してるみたい。ずっとずっと、こうして二人で知らないところに行くって想像してるとそんな気になる」
莉里が目を閉じていた。
「そうだね」
そうかもしれない。二人でずっと知らない場所に行って、そこでピアノ弾いて、ご飯食べて、また移動する。幸せだな、と思った。
「でも…莉里の両親は心配するだろうね」
「え?」
閉じていた目を開けてこっちを見る。
「ごめん。変なこと言った」
「それは気にしないことにする」
そんなことを言わせた自分を後悔した。
「そうだね。ごめん」
莉里の手が俺の手の上に重ねられた。
「ううん。不安なの分かるから」
そうだ。二人でどこに向かっているのか分からない。俺といて、莉里が幸せになれるのだろうか。黙っていると、莉里が続ける。
「私のことは信じて。ずっと…律の味方だから」
小さな両手で俺の左手を包んでくれる。
「律の居場所になれるように頑張るね」
そう言ってくれた。その気持ちだけで温かくなる。
「莉里の居場所は俺のところでいいの?」
「うん。もちろん。律がいい」と頭を肩にもたせかけてくる。
莉里が普通の恋愛ができないのは―。
原因がある。
幼い頃の誘拐が原因だ。断定してはいけないのかもしれないけれど、深層意識の中に男性が怖いものだと刷り込まれた可能性は高い。
「莉里…」
「何?」
何の疑いもなくこっちを向く。原因が分かった方が莉里は…普通の恋ができる。でも実際、もし記憶を思い出したとして――いい結果になるとは限らない。それに俺はそれを本当に望んでいるのだろうか。
「もし…」
「もし?」
「普通の恋愛とかできたら…」
「普通の恋愛?」
「ほら、前に言ってた…蛙化現象が治ったとしたら、他の人と恋愛できて…」
「…律? 一緒にいるの嫌になったの?」
「そうじゃない。そうじゃなくて…」
莉里が好きでたまらないけど、同時に幸せでいて欲しいという気持ちもある。そのために辛い過去を掘り返すべきなのかも分からないけれど…。
「心配して…くれてるの?」
「うん。まぁ…そんな感じ。俺はもういいんだけど、莉里はまだ選択できると思うから」
「選択?」
「いい人と出会って…結婚して…家族つくれるし、子供だって…きっと」と言いながら、不思議な気持ちだった。
そんなこと絶対して欲しくないのに、口がどんどん勝手に話してしまう。
「うん。そうかもね」
莉里がそう言って、俺に微笑みかける。分からなくなる。それがどういう意味なのか。
「でも…そんなの私の幸せじゃないよ。私…あの日のこと後悔してる。律のこと、もっと助けてあげたかった。今まで律は…ほとんど一人だったでしょ? だからいいの。私のこと全部独占して。私の全部食べてちゃってもいい」
「…いいの?」
「いいの。全部。それが安心だから」
莉里はそう言って、窓の外を眺めた。
そう。多分、莉里はそう言ってくれると、内心分かっていた。莉里が俺を捨てることはないことも。
ただ莉里の記憶の奥に隠されている傷を癒したかった。でも…それを顕在化することで、莉里が辛い思いをするなら、そのままにしておいた方がいいかもしれない。黙っていると、莉里が言った。
「律…。あのね。律のことが好きで、律だと平気だけど…。律以外の人はだめで。それがどうしてか分かんなくて…」
「いいよ。莉里。莉里がそう言ってくれるのは嬉しいし…」
「でも何だかそれは変だっていうのは分ってる。…考えようとしたら…気持ち悪さが蘇って」
莉里を抱き寄せた。
「いいよ。無理に考えなくて。ごめん。変な事言って。莉里が俺の側にいてくれるのが…信じられないくらい嬉しくて、でも不安で言っただけだから」
深い傷はだれも触れない場所にしまわれている。
そのまま誰にも触れさせない。ずっと俺が莉里を守れたらそれでいい。俺が覚悟を決めた瞬間だった。
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