第35話

森の中


 パリの夜は乾いた空気のおかげで気温がぐっと下がる。蒸し暑い日本とは全然違っている。今日はタクシーで帰って、すぐに寝る予定だった。玄関に着くと、莉里が立っていて、その場で抱きしめられた。


 手術のこと心配してくれたのがすごく良く分かる。そして不必要な心配までしてくれる。他の女性を好きになった時に困るだろうと不安そうに言う。そんなことありえないから手術したのに、と少し笑った。


「莉里以外、無理」


 その言葉が莉里を後に誤解させることになるとは思わなかった。




 莉里の寝息を聞きながら、リビングからの明かりを眺める。


 身体を繋げても、一生手に入らない。


「莉里、おやすみ」


 もう寝ている莉里に言って、髪にキスをした。


 いつまで? どこまで?


 いられる限りは莉里と一緒にいたい。


 いつか莉里が誰かと結婚して、子どもができたらおじさんになる。その子にピアノを教えたりするんだろうか。

 無理だ。


 できるだけ遠くで暮らして、外国で暮らしている叔父さんになろう。


 そんなくだらない事を考えて、俺は手離す準備をしようと思った。莉里が好きだから。


「今だけ…側にいて」


 その言葉を聞いたのか、莉里が一瞬、目を開けて、俺を見て微笑んでから、また眠った。




 朝、スーツケースを片付けていると、スペインの旅行で買ったお土産が出てきた。莉里が欲しいと言っていたマドリードで買った闘牛の磁石だった。


「あ、莉里、こんなところに入ってた」とチェックの紙袋を渡す。


「そっか。律のケースの中だったんだ」


「ごめんね。探してた?」


「ううん。持って帰って来るの忘れちゃったのかと思って…。でもよかった。律がせっかく買ってくれたから…」


「え? そんなの…大したものじゃ」


「ううん。大事にするから」と莉里は紙袋を大切に持って、棚にしまう。


「スペイン楽しかった?」


 夏に一緒に行ったスペイン旅行はバカンスみたいで本当にゆっくりできた。演奏会も上手くいったし、俺にとってもいい思い出だった。


「うん。すっごく気に入った」


 莉里の明るい声を聴きながら、後ろ姿を眺める。小さい頃に誘拐されたことを覚えているだろうか。無事でいてくれて本当によかった、と俺はため息を吐く。


「律は? あんまりだったの?」


「え?」


「ため息ついたから」


「いや、また莉里と行きたいなぁって。あの時間に戻ったらいいなって思って…」と嘘を吐いたら、思いがけず明るい笑顔で莉里が飛んできた。


「嬉しい。私も、すっごく楽しかったから」


「じゃあ、また行こう」


「うん」


 そう言う莉里の笑顔が幼く見えた。


「莉里…」


「何?」


「愛してる」


 ふふと柔らかく笑って、莉里も繰り返してくれた。




 荷物を片付けている間、莉里があれこれ喋るのを聞いていると、案外、莉里はおしゃべりなんだな、と思った。いつも練習している時は気を使って話しかけてこない。今は俺が洗濯物を洗濯機に入れようとすると、後ろをついてきてまで話しかけてくる。まるで子供みたいだ。可愛いなぁ、と思っていると、


「世界中で二人きりだったら淋しいかな」と突然、莉里が聞く。


「え? 別に、莉里がいるから淋しくないよ」


「だってピアノ弾いてもお客さん私だけだよ?」


「そしたら動物を招待する」と言うと、莉里が驚いたような顔でこっちを見た。


「何?」


「意外とメルヘンで…驚いた」


「メルヘン…。じゃあ、ホールとかないから、ピアノを森で弾いたらいいんじゃない? もっとメルヘンだよ」


 莉里はしばらく黙って「すごく…綺麗な絵が見えた」と言った。


「ありがと」


「でもピアノないよ?」


「ピアノは…神様が作ってくれるよ」


「え?」


「オーダーする。ピアノが得意なので聞きたくないですか? って」


「オーダーなの? それ」と言って笑い出す。


 本当にそうだったらいい。莉里とピアノがあるだけの世界。そしたら一日中、動物と莉里にピアノを聴かせてあげる。


 そしたら周囲の雑音なんか気にせずに、風と動物と空気と光の中にいる莉里のためだけに演奏したらいい。


 本当にそうできたらいいな、と思う。


 莉里を手放さなければいけない。分かってはいるけれど、それまでと期間限定だからと求めてしまう。


「律…本当に素敵ね。もし…そうなったら」


 綺麗な笑顔で、俺に言う。叶わない世界を二人で一緒に見ていた。




 ベッドの中で莉里の体に自分の体を重ねると驚くほど、しっくりくる。もともと一つだったんじゃないかと思うくらいだった。


「莉里…ごめん」


「え? どうして?」


(愛して…ごめん)


「好きに…なって」と莉里の目を覗き込んだ。


「え? 私もよ?」


「俺が悪い」と言って口を塞いだ。


 好きになって…ならなければ良かった? どこで間違えた? そんなことを考えたところでもう戻れない。


「好きで、好きで手にいれたかった。莉里は優しいから」


「そんなことない。私も…」


 キスで何も言えないようにする。莉里が優しくしてくれるだけ、俺の罪が重くなる気がした。莉里の柔らかい唇、小さな舌、甘い吐息、全てが狂おしい。


 その瞬間、莉里の体から力が抜けた。


「どうかした?」


「全部」


「全部?」


「全部、どうぞ。何もかも律にあげる。髪の毛一本まで律のものだから」


 そう言われて、莉里のことを抱きしめた。それが今だけでも嬉しかったから。


 手放さなければいけない…とどこかで誰かの声がする。

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