第33話
過ちだらけの過去
あの日、雨が降っていた。見通しの悪い道で母は事故に合った。俺は祖父母の家でピアノを弾いていて、事故現場には大学で働いていた祖父母がそのまま向かい、俺は夜遅くまで誰も帰って来ない家に一人でいた。
完全に陽が落ちて真っ暗になって、ようやく電気をつける。それはいつものことだった。見えないままピアノをどこまで弾けるかという遊びもしていたから、いつものように真っ暗になってようやく腰を上げた。
灯りをつけて、冷蔵庫の中を見ると、夕飯がお皿に乗せられていた。それを温めて食べるのもいつものことだった。食べ終わって、お風呂も一人で入る。一人だと面倒なのでシャワーだけで体を洗ったりするけれど、祖父母から何か言われたことはなかった。そしてそのままベッドに向かった。
誰の顔を見ることもない夜も珍しくなかったから気にも留めていなかった。
その日、夢の中で母親の姿を見た。
「律、バイバイ」
俺の声は聞こえないのか、手を振っている。笑っているのか、泣いているのか逆光で見えない。
そしてドビュッシーの月の光が聞こえてくる。母がよく弾いていた。
「ごめんね」
そう言って消えた。
目が覚めて、胸が痛くなるほど、急に母親に会いたくなったけれど、相変わらず家は静かで誰もいる気配がなかった。そして珍しいことに翌朝になっても誰もいなかった。俺は一人で朝ごはんも食べずに学校に行った。
昼の給食を食べている時に先生から呼び出される。
「お母さんが…事故にあったらしい。落ち着いて聞いて欲しい」
そう言う先生の顔を見て俺はなぜか
「死んだんだ」と呟いた。
驚く先生の顔を見ながら、だから昨日、あんな夢を見たし、誰も家に帰って来なかったんだ、と理解した。祖父母からしたら実の娘が亡くなったのだから、俺のことを構う暇もなく病院やっ警察に向かっていたのだろう。
先生は困惑しながら、祖父が迎えにきていると言った。俺は泣くこともなく、帰る用意をした。
祖父は俺を見て、無表情のまま、手を引いた。俺も同じくらい無表情だった。そして警察の方に遺体があるということで警察に向かった。
顔の外傷がなかったから、まるで眠っているようだったが、明らかに生きている人とは違っていた。横で祖母が声を出さずにずっと泣いている。
俺は泣くこともできずにただその景色を見ていた。
お葬式は流れるように行われて、母は骨にされた。それが何だか不思議だった。祖母が精神的に辛いということで四十九日も経たない間に、あの人が俺を引き取ることになった。
何もかもが俺がどうすることもできない流れで、気が付いたら莉里の家にいた。
母は事故で亡くなった。
事実しか知らない。
信号のない横断歩道で、黒い傘を差していて見えにくかったらしいが、運転集が一瞬よそ見をしていたこともあって、気が付着いた時には遅かった、と言う話だった。それも数年後に聞いた。
「あの日…別れ話をしたんだ」
あの人はそう言った。
「別れ話?」
母はそれがショックで飛び出したのだろか。あるいは呆然として事故にあったのだろうか。
「…だから責任がある」
「事故に対しての…ですか?」
「そう」
あの人は視線を落とした。俺は特に怒りも悲しみも起こらなかった。でもなぜ、突然別れ話をしたのか知りたかった。
「一番好きだと言っていたのに…気持ちがなくなったんですか?」
「いや、好きだから…」
あの人が言うにはピアニストとしての活動をするために別れたを決めたと言う。自分の愛人だということがスキャンダルになるかもしれない、と言った。そんなことは付き合った時に分かっていただろうに、と俺は少し呆れた。
「莉里のお母さんとは…お見合いとか…そう言う感じですか?」
「…いや。彼女とは学生時代からの…」
愛が覚めたから、母親と恋人になっていたのだろうか、と思うとうっかりでそうなため息を飲み込んだ。
「何を言っても、言い訳にしかならないけど。家族という形になって落ち着いてしまっていた。そんな時に会った君のお母さんは自由で綺麗で…羨ましかった」
偶然、同僚の結婚式でピアノを演奏している姿に見惚れて、連絡先を交換して、そこから始まったと言う。後でピアニストだと聞いて、演奏会にも出かけ、お互い惹かれあったと話す。
「ピアノを応援する気持ちも大きくて…」
子どもができた時は出産に反対したと言う。それでも愛する人の子どもだから産みたいと俺の母は言った。
「結婚は望まないから…」と懇願されて、莉里の母にも隠しておけなくなる。
莉里の母は「離婚したいの?」と一言だけ言って「離婚は考えてない」と言うと「そう」とだけ言って、認知も反対しなかった。
俺は莉里の母のおかげでこの世に生まれてきた気がした。
子どもを産んでも母はピアニストとして活動していたが、少しずつあの人への執着が増えて行き、練習をしなくなっていった。
「…確かに、母はいない時間が多かったし、練習している姿を見ることが少なかった」
「もうピアノには興味がないようだった。でも…続けて欲しかったから」
それで別れ話をした。
執着していた母に突然別れを告げたあの人は手をぎゅっと握っていた。
「関節的に…母を殺した? と?」
俺は息を吐くように軽く笑った。そもそもが間違えているのに、何を後悔しているんだ。
「…そう」
身勝手を責めたところで母親が生き返るわけでもなく、俺はこの憂鬱な食事会を終わらせたくなった。この目の前にいる男一人で一体、何人を不幸にしたのだろうと思うと、無駄な時間に思えてくる。
「事故ですよ。母が亡くなったのは」と俺は言った。
驚いたように凝視する。もう一秒も一緒に居たくない。
「ごちそうさまでした」
動かないあの人をそのまま置き去りにして店を出た。
あの人がもし母親に声をかけていなければ、俺は生まれてこなかった。あの人の愚行のせいで俺は今、存在している。感謝しなければいけないのだろうか、と思うと皮肉な笑いがこみ上げてくる。あの人が別れを告げなければ、俺は莉里と会う事がなかったし、フランスに行かされることもなかった。これも感謝しなければいけないことか。
「馬鹿か」と俺は誰に言うでもなく呟いた。
その日、祖父母の家に寄った。祖母もさすがにもう俺の顔を見て、泣くことはなかったけれど、淋しそうに微笑んでいた。祖父は出かけていて、祖母がお茶を入れてくれる。
「ねぇ、あの人が…」
「園田さん?」
「うん。亡くなった日に別れ話をしたって…」
「あぁ…。そうね。知ってたの。あの日、謝られたから」
「そっか。怒った?」
「…怒る元気なかったわよ。私は…終わりにして欲しかったし」と祖母は皺の増えた手で湯呑を渡してくれる。
「…反対してたんだ」
「そりゃあそうよ。…でもね」と言って、祖母は立ち上がった。
そしてSDカードを渡してくれた。
「これ、使えるの?」
「昔のだからね」と言って、パソコンを持ってくる。
そこにデータがあると言うので、見てみた。動画を選んで再生してみた。それは母親がこの家の庭で水やりをしているのだが、あの人も映っていて、若い母親がふざけて水をかけている。
楽しそうな二人を見て不思議な気持ちになった。
「…なんかね。本当に好きで、好きで仕方がなかったんだ…って」
「…でも」
「そう。でも…しちゃいけなかったのよ。罰が当たったの。私はそう思うことにした」
「…執着が激しくなったって…」
「それはね。あなたを産んで…。あなた…赤ちゃんの頃は愛されてたの。二人に」
「え?」
「すごくかわいがられてた」
さっき見た動画のすぐ横に俺の誕生日の日付のフォルダがあった。
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