第32話

あの人


 九月に入って、日本に帰国した。本番まではあの人に会いたくなかったから、ピアノの先生の家で居候させてもらいつつ、練習させてもらった。


「狂気の沙汰じゃない? 同じ音を繰り返し弾いて」とピアノの先生に言われる。


「だって…日本人の人は耳が肥えてるし」


「律…。聴かされてる方にもなって」と怒り出した。


「すみません」


「でも格段と上手くなったわ」と言ってくれた。


「ありがとうございます」


「フランス行…急だったけど、今日、聴いて、良かったんだって思った」


 俺は曖昧に頷いて、練習を続けた。




 本番も無事に終わって、あの人に会った。まさか本当に会いに来るなんて思いもしなかった。ホテルのロビーで待ち合わせた。和食の店に連れて行ってくれるらしい。


「お久しぶりです」


 何年顔を見ていないんだろうと思いながら挨拶すると、相手は驚いたような顔を見せる。それはそうかもしれない。俺の背は随分伸びて、少しあの人より高くなっていた。


「…大きくなってびっくりした」


 成長期だったから、と言えば皮肉になるだろうか、と思って、黙って立ち上がる。やはりあの人より高い。


「ご飯に行こう」と言ってホテルのレストランの和食の店に連れて行ってくれた。




 個室になっていて、落ち着いた雰囲気だった。もうメニューは決まっているようで、飲み物だけ聞かれる。ウーロン茶と答えた。


「飲まないのか?」


「特に…」と視線を逸らす。


 あの人と打ち解けたくなんかなかったから、お酒を飲む気持ちにならない。あの人も飲まなかった。


「…莉里と隣同士だって?」


 俺はその嘘に同意した。


「莉里さん…綺麗になりましたね」と揺さぶっておいた。


 まさか男女の関係になっているとは言わなかったけれど。


「心配してくれて…時々、ご飯作ってくれます。この間は親子丼でした」


 じわじわと苦しめる方がいい。


「頻繁に会ってるのか?」


「いいえ。彼女は昼間は学校があるし、俺は夜は演奏会や、ピアノの先生のところに行ってて」とすれ違い生活だと言った。


「…」


 お互い無言でご飯を食べる。美味しいはずの刺身やてんぷらを食べても少しも楽しい気持ちになれなかった。ひたすら無言だった。最後の鯛茶漬けが出てきて、ようやく口を開いた。


「ドイツの話はどうだ?」


「先生を変えるのは慎重にしないと、顔を潰すことになるんで…。今年は…コンクールを受けるつもりで動いてるので、急には…」ともっともらしいことを言う。


「…莉里に恋人は?」


「さぁ。でも…前に男性が苦手だって言ってたなぁ…」と言いながらあの人を見た。


「え?」


「男性不信みたいな…。理由は分からないけど。環境かなぁ?」


 あたかもその原因があの人にあると言うような含みを持たせて言う。


「だから心配するようなことは何一つないけど?」


 大分ふやけた対茶漬けを食べながら、あの人を眺める。


「…そうか」


 やはり莉里のことは心配している。別に愛して欲しいとは思っていないけれど、不思議だった。莉里を大切にするのに、奥さんのことは蔑ろなのが理解できない。莉里は母親に少し似ている。面影がちゃんと残っている。


「一つ聞いていいですか?」


「何を?」


「母のこと…愛してましたか? 一番でしたか?」


 そんなことを今更聞いてどうするわけでもない。ただ不思議だった。家庭を全く顧みないわけじゃない。それなのに外で恋愛をして、子供まで作った。


「…愛してた。順番は…一番だった」


「でも…母はそう思ってなかったみたいですけど」


「…家庭は捨てられなかった」


「それは莉里さんがいたから? 奥さんだけだったら?」


「それも理由の一つだけど…。離婚は大変だから」


 離婚は大変だからという理由で離婚せずに母と恋愛していて、一番好きだったという回答に納得できなかった。


「誰も幸せになんかなってないですけどね」


「…そう。あの日…」


 それは俺の知らない母親の事故の話だった。

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