恋は落ちるもの

 そうだ。それでうちに連れてきたんだ。


 いつも僕が寝ている布団に蘭先輩を寝かせて、僕はソファーに横たわったところで記憶が曖昧になっている。


 なんだか大変だったけれど、普段のしっかりとした蘭先輩とは違った意外な一面に可愛らしさも覚えたような気も、する……。


 だからだらうか? 蘭先輩の首筋の白さがなんだか艶かしく見えて、落ち着かない。


「……」


 寝ている女性をまじまじと見つめるなんて悪趣味だとは思いつつ、目が離せないでいる自分がいた。蘭先輩は寝汗をかいたのか、前髪が額に張り付いている。露わになった眉が美しいカーブを描いていた。意外に寝相がいいようで、掛け布団から伸びた腕は昨日寝かせたままの形だ。


 まずいな。なんでこんなにじっくりと見てしまうんだろう。

 自分でもよく分からないが、心臓がうるさい。

 こういうとき、どうしたらいいのだろう。


 僕が困り果てていると、


「んん……」


 蘭先輩が寝返りをうった。そして目をゆっくりと開けた。まだどこか眠そうだ。その眠そうな目がこちらを向いて、僕を捕らえた。


「……?」


 ボーっと僕を見る。まだ夢の中にいるようだ。


「おはようございます」


 僕は声をかけてみた。蘭先輩のうつろな瞳に光がさして……。


「!?」


 蘭先輩の大きな目がさらに大きくなり、うっと呻いて頭を抑えた。きっと二日酔いで頭痛がするのだろう。蘭先輩は昨日のことを覚えていないのか、混乱したような表情で辺りを見回し、そして。


 ……!


 反則だと思った。


 蘭先輩の白い頬が一瞬で桜色に染まった。蘭先輩がこんな顔をするなんて。


「え、えっと……」


 蘭先輩は僕の目を気にしつつ自分の服を確認して、とりあえず、


「あ、あはは」


 と笑った。


 僕もつられて笑ってみせる。なんだか気まずい時間が流れた。


「……昨日は……」


 蘭先輩はよほど頭痛が酷いのか、顔をしかめながら考え込んでいる。どうやら思い出せないようだ。


「えっと……。私、帰るね!」


 そう言って勢いよく立ち上がった蘭先輩は、一歩踏み出して見事に布団を踏みつけ、その場に倒れた。


「きゃ!」


 思いっきり顔を絨毯にぶつけた蘭先輩。僕は言葉を失った。とっさに動いて助けられなかった自分が情けない。


「……」


 蘭先輩はそのまましばらく動かなかった。


「……大丈夫ですか?」


「……い、痛い……。でも大丈夫!」


 蘭先輩は気丈に言ったが、力が入らないのかなかなか起き上がれないでいる。 


 なんだか可愛いと思った。


 蘭先輩を起こすために僕は近づき、両手を掴んで、とりあえず座らせた。


「あ、ありがと……」


 お酒の香りに混じって、蘭先輩のいつもつけている香水の香り、そして、ほの甘くて温かい女性の香りが鼻をかすめる。


 女の人ってこんなにいい香りだったんだ。昨日はなんだか大変で気付く間もなかった。


「しゅ、しゅう君?」


 おでこと鼻がぶつけたせいか赤くなっている蘭先輩が困ったように僕を呼んだ。


 掴んでいる蘭先輩の手首の細さが、ひんやりとした体温が、なんだか心地よい。そして、やっぱり白い首筋に目がいってしまう。


「おーい、しゅう君?」


 まずいなと思った。触れてみたいと思ってしまった。思ったときには、右手で首筋を撫でていた。温かくて吸い付くような白い肌。こんなに綺麗な肌だったんだ。


「しゅ、しゅう君?!」


 ああ、いい香り……。


「……」


 鼻腔を刺激された僕は誘われるように蘭先輩の首筋を舐めてしまっていた。ほの甘いようなしょっぱいような味がする。


「ひゃっ! ちょ、ちょっと、しゅう君! 何してんの?!」


 蘭先輩の自由になった左手が僕の頭をポカリと叩いた。僕はそれで我に返った。

 しまった。これじゃ、単なる変態だ。


「え、えっと ……」

「……」

「す、すみません。まだ酔ってるのかも……」 


 僕はとっさに嘘をつく。


「そ、そう……。私もなんだか二日酔いで、頭が痛い。あの、右手。手首痛いから、放してくれる?」


 耳まで赤くした蘭先輩が遠慮がちにそう言った。口からアルコールの香りがした。


 言われてなんだか寂しく感じた。手を放したら蘭先輩は帰ってしまうような気がした。当たり前のことなのに。


「しゅう君?」

「あ、すみません」 


 右手を放す。


「昨日は、迷惑をかけたみたいで、ごめんなさい。ありがとう」

「いえ……」


 ふらつきながらも蘭先輩は一人で立ち上がった。僕はなんだか切なくなった。まだ一緒にいたいと思った。


「大丈夫ですか? 送っていきましょうか?」

「大丈夫。と言いたいところだけど、ここがどこだかわからない。知っている駅までお願い」

「はい」


 僕たちは朝日の中を無言で近くの駅まで歩いた。すずめの鳴き声が平和な朝を演出している。蘭先輩と二人で、朝、こうして歩いているなんて不思議な気分だ。おぼつかない足取りなのに、手をかりようとしない蘭先輩はいつもの凛とした蘭先輩だ。だけど、そんな姿までもが今は可愛いと思えた。


「駅ね。ありがとう」

「いえ……」

「昨日のことは……記憶がないの。しゅう君も忘れてくれるとありがたい」


 蘭先輩はソッポを向きながら言った。その耳が赤い。


「……はい」


 僕はそう返事をしたけれど、今日を含めて忘れることなど出来るわけがない。蘭先輩をこんなに可愛らしいと思った気持ちも。


「じゃあ、また研究室でね」

「はい」


 一度手を振って地下鉄の駅への階段を降りていく蘭先輩を見送りながら、やっぱり僕は寂しさを感じていた。


 研究室で、か。そう、だよなあ……。


 きっと何もなかったような毎日がまた始まるのだろう。少なくとも蘭先輩はそうだろう。


 でも。

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