第38話

初恋


 変態は私の顔を見ると、おずおずとトイレから出る。


「あのさ、なんでそんなことしてんの?」と私は思わず聞いてしまった。


 本当は関わってはいけないのに、うっかり聞いてしまったのは、胸の痛みが治らないからかもしれない。


「それは…興味があるから」と最後は小さな声で言う。


「興味って…女性がトイレするのが?」と聞き返すと頷いた。


(完全に変態…)と私は白い目で見る。


「姉さんは…なんで、悲しいの?」と変態おじさんに『姉さん』呼ばわりされた。


 どう考えても年下なのに…と思いながら「悲しくなんか」と言うと、胸がまたチクチクし始めた。


「好きな男に振り向いてもらえないんだろ?」と変態に言われる。


 ちくちくが抉られるような痛みに変わる。


「まだ好きになってないから」と変態になぜか真剣に答えてしまう。


「自覚ないだけじゃないのー」と変態に言われるから私はその広大なおでこに思い切りデコピンをした。


 当たった感触はないけど「いたー」と変態は消えた。


 そして誰もいなくなったトイレで用を済ませる。鏡に映る私は少しだけ悲しそうに見える。変態じゃなくたって、そんなこと分かる、と思った。中崎さんの言葉一つ一つが胸に響くようになってしまった。これが…いわゆる恋…なのかもしれない。もしかして本当の…と考えると怖くなって、顔を思わず洗って、ハンドペーパーで顔を拭いた。

 化粧道具を持ってこなかったので、なんだかひどい顔がなおさらひどくなって、トイレから出ると、中崎さんが立っていた。


「また具合悪くなったのかなと思って」と言ってくれる。


「あ…。大丈夫です」


「ちょっとコンビニついて来てくれない? アイス…買おう」


「へ?」と私は変な声を出した。


 今日はそんなに酔っていないし、特に食べたいわけでもない。吉永さんと梶先輩を二人っきりにさせる作戦なのかな、と思っていたら、手を取られて、店の外まで連れて行かれた。


「十子ちゃん…」


「はい?」


「無理して、吉永と梶先輩のこと取り持たなくていいんじゃない?」


「え?」と聞き返したが背後の電柱の影に変態がいて、こっちをチラチラ見ている。


「吉永も無神経だから十子ちゃんに頼ってくるけど」


「別に…あの…それは全然」と言いながらも変態が気になって仕方ない。


「嫌だったらはっきり断ったらいい」


 変態がにやにや笑いながら中崎さんに近寄っていく。


「あ。だめ…」と言って、私は中崎さんの手を握って、走ろうとする。


「何?」


「います。悪霊が」と私が言うと、中崎さんはものすごい勢いで走るので、私は転けそうになる。


 足がもつれて、もうだめだ、と思った瞬間、中崎さんの腕の中にいた。匂いが私を包む。中崎さんの匂いと心臓の音。走ったせいか早くなっているし、私も息が上がって、苦しい。


「ごめん。大丈夫?」


「大丈夫…じゃ…ない…です」


「え?」


 あの変態のせいで、私は自覚してしまった。中崎さんに恋をしてしまったことを…。


(バカバカバカ、変態変態変態)と思いながら泣き出してしまう。


 しばらく抱きしめてくれていた中崎さんが頭を撫でながら「その悪霊ってそんなに怖かったの?」と聞いた。


 でもこの思いはきっと迷惑だ。それは誰より分かってる。


「…変態でした」


「変態?」


 伝えたところで、中崎さんを困らせるだけだ。


「モロ出しでした(頭部が)」


「え?」と中崎さんが驚いて「それは怖かったねぇ」と優しく背中を撫でてくれた。


(変態のせいだから、変態のせいにしてもいいんだ)と思い切り泣きながら、私はぼんやりした。


 始まる前から失恋がわかっている恋なのに、避けられないなんて、私はお馬鹿すぎる。恋愛レッスンなんて頼んだ時から、こうなることは分かっていたはずなのに。叶わない恋なのに、中崎さんの匂いは暖かくて心地いい。


「ごめんなさい。もう大丈夫です」とゆっくり体を離す。


「それは…でもびっくりするよね」と優しい中崎さんは私の嘘にも気づかず慰めてくれる。


「今日は…もう…帰ります。梶先輩に謝ってください」


「あ、ちょっと待って。鞄とか荷物…取ってくるから」と中崎さんが店に戻る。


 しばらくすると梶先輩が私の鞄を手に店から出てきた。


「十子? うちに今晩から泊まりなよ。一緒に帰ろう」と言ってくれた。


 私はまるで小さな子供みたいに頷いた。いつも以上に甘えたくなる。コンビニで必要なものを買って、梶先輩の家に向かう。


「服は私のを着たらいいから」と言ってくれた。


 梶先輩のできる女的な服を着るのは躊躇われたが仕方がない。家に電話して、梶先輩のお家へ向かった。



 梶先輩のお部屋はひんやりしている。蛍光灯の灯りがなぜか寒々しく感じた。


「十子…何があったの? 中崎が青い顔して店に戻ってきたけど」と私に水をコップに入れてくれる。


 私は梶先輩に素直に伝えた。中崎さんを好きだと言うことを。


「そっかぁ。いいと思うよ。中崎も何考えてるか分からないところもあるけど、いいやつだし…十子のこと気に入ってそうだし」


「でも…結婚はしないって言ってたから…。あの…永遠の片想いなんです」


 そう言うと、梶先輩は長いため息を吐いた。


「十子は結婚したいもんねぇ」


「…はい」


「それは仕方ないねぇ。今日はゆっくりお風呂に入って、寝なさい」と肩を抱きしめてくれる。


 特に応援するでもなく、諭されるわけでもないのが心地良かった。私は言われた通りお風呂に入って、そして寝る準備をしていたら、宅配でハンバーガーが届いた。


「十子、あんまり食べてないから、頼んだよ」と梶先輩が袋を渡してくれる。


「え? 先輩は?」


「私はサラダ食べるから」と袋からサラダカップを取り出す。


「先輩大好き」と言って、私は抱きついた。


「本当なそんなの食べさせたくないけど、今日は特別だから」と言ってくれる。


 私はハンバーガーを取り出して、もぐもぐ食べる。残った焼き鳥はどうなったんだろうと思いながら、梶先輩を見た。


「もう…中崎は諦めて、うちの子になりな」と言われる。


 いつもなら「なるなる」と飛び跳ねるところだが「ダメです。私…中崎さんのこと好きになってしまったから」と断った。


 少し悲しそうな顔に胸がちくりとしたけれど、嘘はもうやめようと思った。


「そっか。ついに十子が恋を…ねぇ」


「梶先輩も好きな人…いますか?」


「好きな人ね…。もう…いいかな」


「え? だから十子は私の分も頑張るんだよー」と言って、ぎゅーっと抱きしめられた。


 その瞬間、悲しみがどっと私に押し寄せてきた。そしてなぜか綺麗な青い空が浮かぶ。果てしない広がる青い空がどうしてこんなに悲しいのか分からないまま、梶先輩の体温を感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る