横にいる黒橋が内心、溜め息をついているだろう事は、承知の上だ。
いわば“敵陣”に乗り込みながら、敵か味方かわからない女と平然と談笑しているのだから。
我ながら、ひねくれている。
「あ、ところでさぁ」
「はい?」
「二杯目飲みたいんだけど、カクテルがいいんだよね。どうせだからブランデーベースのやつが」
「お作りしましょうか?」
「出来るの?」
「簡単なものなら」
…珍しい。
「へえ。じゃあ、…『ダーティーマザー』二つ」
「あ、カルーア(コーヒーリキュール)使うカクテルですか?」
「そう。ウオッカベースになると名前が変わる」
「『ブラックルシアン』?」
「打てば響くね~、麻乃ちゃん」
「実は、私実家がバーなんですよ」
「…へえ」
「まあ、小さい店なんですけど。そこで父親が色んなお酒作るの、来ちゃいけないって言われてももぐり込んでは見てました」
「ふーん」
「だからレシピも知ってますけど。まさかこれほどの高級品で、しかも私が作るなんて、緊張します」
「気楽に作ってよ。もし良かったら、麻乃ちゃん達もどう?ダーティーマザーには、生クリーム入ったやつあるよね?君達にはそれを」
「『ダーティーホワイトマザー』、かな。ありがとうございます。雪妃ちゃん、それでいい?」
「ええ、勿論」
「じゃ、すみません、ボーイさん呼んで、必要なもの揃えますね」
そう言う彼女に任せる事にして、グラスに残ったリシャールを飲み干そうとした時、ジャケットの内ポケットのスマホが小さく震える。メールだ。
そっと取り出して確認して。
「ゲッ!?」
思わず声を出してしまう。
「どうしました?」
黒橋が
「これは…」
確認した黒橋も少なからず驚いている。
そりゃ、そうだろう。
「…よりにもよって、今ですか?」
「なあ、そう思うだろ?」
文面はたった一行。
『今着いた』
差出人は、…文親。
兄さん、一体、何を、どこからどこまで嗅ぎ付けてきたのやら。恐ろしくて知る気にはなれない。
「お客様?」
「あのさ、麻乃ちゃん、ちょっと急にもう一人増えるって連絡来たからさ、同じものをカルーア濃いめで作ってくんない?」
「あら。はい、分かりました」
「黒橋、ちょっと迎えに行ってきて」
「…かしこまりました」
黒橋はスッと立って入り口のほうへ消えてゆく。
「女の子はもう一人つけますか?」
「あ…それはいい。二人で十分」
麻乃の問いになんでもないような平静を装いながら、内心はバクバクだ。身内にすら揺れない感情があの人の前では簡単に崩れる。
ここに意図を持って来ている身としては、それでは困るのだが、彼を止めることは俺には出来ない。
来てしまったのなら仕方ない。
数分後。
彼がフロアに入ってきたのはそちらを見ずともすぐに分かった。
“場”が変わったからだ。
辺りをはらうような涼やかな威勢が周りを圧倒する。
黒橋が俺のいる席に彼を案内して戻って来ると。
ある意味予想済みの現象が起きる。
俺の隣に座らせる為に席を一度立とうとして通路の文親を見上げた麻乃が口を小さく開けたまま固まってしまったのだ。
“あー、やっぱり”
雪妃も同じ状態だ。
文親の顔を至近距離で見た人間は大体こうなる。
頬を染め、ぼーっとして、彼を見つめる事以外を忘れる。モデルでも通る八頭身と、百人綺麗なモデルがいても、足元にも及ばぬ怜悧で秀麗な美貌。
彼に話し掛けられて、まともに口をきけた一般人を俺は知らない。ま、高校時代から彼の回りは親衛隊を兼任した生徒会(俺を含む)と、密やかに同年代で構成された護衛が囲んでいたから近づきようがなかったのだが。
「文親さん、来るんならもっと早く連絡してよ。あーあ、女の子に説明する暇もなかったからまたフリーズさせちゃったじゃん、責任とって優しくしなよ?」
わざと明るく俺は声を出し、その声で麻乃が我に返り、文親に席を譲り、座り直す。
「ごめんね、急に時間が空いたから。…龍哉、このお酒は?」
「リシャールで作って貰ったカクテル。今飲むとこ。この子、麻乃ちゃんね、上手いんだよ。だから文親さんにも」
「それはそれは。どうもありがとう、麻乃さん?」
文親がにっこりと笑顔を向けると。麻乃は頬を薄紅に染め、下をむく。百戦錬磨の筈の夜の女ですら簡単に落ちる。紫藤文親、恐るべし。
「カルーア濃いめで良かった?」
「『ダーティーマザー』か。うん、美味しい…」
俺の横に座り、酒を口に運ぶ文親の表情はびっくりするほど柔らかい。
意識的に自分の
「麻乃ちゃん、ごめんね、自分たちのは作った?」
「ええ、もう頂いてます」
「良かった」
何とか、空気を戻したその時。
店の入口の方からこちらへ向かってくる何人かの靴音が俺達の耳に届いて、三人で密やかに目線を交わす。
「すみませんが、麻乃さん、雪妃さん、少し席を外して貰えますか?」
耳当たりは良いが有無を言わせぬ言葉と共に長身の男が現れる。
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