青天の霹靂――サタン
その日も、いつもの様に人間界へと来ていた。吐き溜めのような魔界より、人間界はずっとマシだ。子供が沢山いるからな。
元気に駆け回る少年たち、和気藹々と花を編む少女たち、親に菓子を強請る少女に、武器屋の陳列窓に張り付いて目を輝かせる少年。至る所に存在する宝石たちを眺めながら小さい広場のベンチに腰掛ける。
ボール遊びをする少年たちのボールがこちらに転がってきて、俺がそれを受け止めたのをきっかけに少年たちと仲良くなる。そんなシュミレーションをしながら、彼らをじっと眺めていた。嗚呼、本当に子供は愛らしい。
ふと、どこかで子供の泣き声が聞こえた気がして辺りを見回すと、後方の路地でうずくまっているブロンド髪の少女が目に入った。どうしたのだろうか。
俺が近付くと余計に泣かせてしまうのではないかと思う自分もいたが、身体は欲望に忠実だ。自然とそちらへ足を向けていた。
少女の目の前まで来て屈み、若干まごつきながら、言葉をかける。
「ど、どうしたのだ?」
「ふぇっ……おにいちゃ、ひっく……だぁれ?」
「っぐ」
俺の声に反応して、ゆっくりと顔を上げる少女。若葉のように鮮やかなグリーンの瞳を潤ませ、眉を下げて、不安げにこちらを見る。ぱちり、と瞬きすると流れ落ちる涙の雫が綺麗で、舐めてみたいと思った。泣いたせいか顔全体を紅潮させながら、しっかりと俺と視線を合わせる姿に、込み上げる熱を覚えて鼻を押さえ顔を背けた。
お、お、お、お兄ちゃん、だと……? 俺の事を、お兄ちゃん、と!?
ドクドクと脈打ちながらせり上がる液体を必死で押し留めながら、なんとか少女に向き直る。
「お、俺は、サタン、という」
「さたん?」
「ファヒャッッ」
ぷっくりと瑞々しく色付いた果実のような唇から零れる、愛らしい声で俺の名が紡がれて、興奮しないわけがなかった。
ブシャッと押し留めていた血液が鼻から噴き出し、少女の目が真ん丸に見開かれる。グリーンの瞳が溢れそうだった。
「さたん、だいじょうぶ? 血、でてる……」
「うっ、あ、ああ、大丈夫だ。慣れている」
自分が泣いていたことなど忘れたように、初めて会ったばかりの俺を心配してくれるいじらしさに打ちのめされる。
ゴシゴシと乱暴に血を拭い、安心させるように笑みを作る。後から後から込み上げてくる血液は気合いで我慢した。
少女はほっとした様にほわりと微笑みを浮かべた。もし俺なんかに心なんてものがあるのなら、少女の笑顔で確実に心が温まったことだろう。
「俺の事よりも、おまえこそ、どうして泣いていたのだ?」
「あ……」
一時的に忘れていたことを思い出したのだろう。再びじわりと瞳に涙が溜まる。若葉に浮かぶ朝露の如き雫が、頬を伝った。
俺は慌てて、無意味な言葉を口にする。
「な、泣くな」
「おかあさん……いなくなっちゃった……」
「いなくなった? つまり死んだということか?」
「おかあさんしんじゃったの……!? やだやだぁ! うわあああん」
言葉を間違ったらしい。余計に泣かせてしまった。
だが、顔を歪めて大粒の涙を流しながら喚く姿もまた可愛らしい。自然と口元が緩んでしまう。理性の糸が、プツリと容易く千切れたのを感じた。
安心させるよう笑みを保ち、壊してしまわないようにごく気をつけて、少女の熱を持つ頬をそっと両手で包み込む。塞き止められた涙が俺の手のひらを濡らした。ふにふにと頬の柔らかさを楽しみながら、吸い寄せられる様に顔を寄せた。
しかしそれはすんでの所で止められる。
「……全く、お主は何をしておるのじゃ。馬鹿者」
がっしりと頭を掴まれて、少女から強制的に引き剥がされる。
それでも抗わなかったのは、後ろにいるのが誰なのか分かっていたからだ。暴力的なまでに愛らしい彼女に逆らおうという気など、起こるはずもない。
いくつもの下級悪魔の気配を引連れた彼女は、古から存在する悪魔の一柱であり、俺を恐れぬ数少ない同胞だった。
振り向くと、薄桃のリボンが巻かれたつばの広い帽子をかぶり、瞳を伏せたまま眉を釣りあげて俺の頭を掴む彼女がいた。
「ヴァッサーゴ、な、何故ここに」
「それは……」
「ミラ!」
「あっ、おかあさんっ……!!」
ヴァッサーゴの登場に驚く俺を他所に、何処からか湧いた女に少女は駆け寄っていき、その勢いのまま抱きついていた。
先程までは見せなかったキラキラした笑顔の少女はとても愛くるしい。が、その女は何だ。何故、その笑顔を向けられるのが俺ではないのだ。
俺の内に燃え上がる感情を察したかのように、ヴァッサーゴが俺の手を両手で握る。彼女はふるふると首を振り、薄らと開いた銀灰色の瞳に俺を映す。
それだけで容易く感情の炎は鎮火して、安らぎを得られた。
女に抱きしめられながら頭を撫でられて、嬉しそうに笑ってみせる少女はより一層魅力的に輝いてみえて、それならば良いかと思えた。そんな自分に少し驚く。俺も成長しているのだろうか、少しは。
そのまま人間の女と去って行くかと思われた少女が、ふと思い出したように振り向き、あろうことがこちらに駆け寄ってきた。それだけで熱いものが噴き出しそうになり、咄嗟に鼻を押さえる。
少女は未だ屈んだままの俺に向けて、花のような可憐な笑顔を向けた。
「さたん、ち、出てたから、これあげる! おかあさんくるまで、いっしょにいてくれてありがとう」
目の前に差し出されたのは、縁に若草色の刺繍が入った白いハンカチだった。にこにこと差し出すそれを、空いてるほうの手で恐る恐る受け取る。人間の子どもから、こんな風に何かを貰うのは初めてだった。
俺が受け取ったのをしっかりと確認して、少女はスカートを翻して母親の元へと戻っていく。去り際に少女は、溌剌とした笑顔で両手で大きく手を振ってくれた。愛しさが極まり、押さえた指の隙間からぽたぽたと赤いものがこぼれ落ちた。
「よかったなぁ、サタン?」
「あ、ああ」
「しかし、わらわはヒヤヒヤしたぞ。お主、あの娘にナニをしようとしていたのじゃ。手は出すなとルシファー殿にキツく言われておったじゃろう?」
今はルシファーの事などどうでもいいと思ったが、彼女が珍しく怒っているようだったから、言葉にするのはやめた。
それよりも、少女から貰った礼の言葉とハンカチのことがずっと頭から離れない。
ヴァッサーゴはふっと表情を和らげて、俺の頭を撫でてきた。それはもうわしゃわしゃと、動物にするそれのように遠慮なく髪がかき混ぜられる。
「なっ、ど、どうしたのだ? ヴァッサーゴ」
「いやな。お主が珍しい表情をしていたものだから、なんだか撫でくり回したくなってのお」
けらけらと、愉快そうに笑う。しっかりと開眼したヴァッサーゴの澄んだ瞳に映る俺が、本当に見たことのない表情を浮かべていて動揺した。
俺が、こんな、表情をしているなんて。
「こ、れは違う。おかしいだろう、俺が、俺などが、こんな」
「よいよい。それほどまでに嬉しかったのじゃな」
ちがう、という言葉は声にならなかった。慣れない液体が頬を伝い落ちる感覚に驚き、思わず顔を背ける。腕で目元を乱暴に拭った。
こんなもの、とうに枯れたと思っていた。弱い己と共に、捨て去ったはずだったのに。
それに悪魔である俺が泣くなど、笑い話にもならん。しかも人間の子に優しくされたからなんて事がもし知られたら、あの銀髪堕天使あたりに腹の立つ反応をされるに決まっている。
意志とは反して滲み出てくる涙に苛立ち、俺の周囲に拳大に燃え盛る黒炎が幾つも現れる。炎熱で涙が蒸発していった。
「サタン、落ち着くのじゃ。お主も、童らを傷付けたくはなかろう?」
炎を恐れるでもなく、躊躇い無く近付いて俺を抱きしめるヴァッサーゴ。その柔く温かい感覚と言葉に、ハッとした。
視線を巡らせると、子供たちが怯えた様子で散り散りに逃げていくところだった。瞬時に頭が冷える。念じれば黒炎は直ぐに消えた。止まらなかったはずの涙もいつの間にか止まっていた。
子供たちの怯える表情もそれはそれで悦いものだが、こんな形で怯えさせるのは本意ではない。やるならば二人きりの時に限る。
「うむ、感情と能力の制御は前より上手くなっておるようじゃな。偉いぞ」
女が少女にしていたように、抱きしめながら頭を優しく撫でられた。しばらく撫でられていると、鼻の奥がツンと熱くなり、鼻から何かが流れ出る感覚。
勢いをまして再びぼたぼたと流れ始めた赤を見て、ヴァッサーゴはギョッとしたように距離をとった。
柔い感覚を少し名残惜しく思いながら彼女に視線を落とすと、白衣に小さく飛び散った赤い飛沫が。
「す、すまないヴァッサーゴ。服に、血が」
「んむ? なんと、そのような所に気を配れるようになっておったか。お主はほんに成長したのぉ。わらわは嬉しいぞ」
「……そうだろうか。ヴァッサーゴが褒めてくれるなら俺も嬉しい」
自分の事のように嬉しそうに笑うものだから、俺も釣られて笑顔になる。子供の笑顔というものは、本当に癒される。
ヴァッサーゴはポケットからハンカチを取り出して、俺の鼻に押し当てる。そして、「帰ろうぞ、わらわたちの世界へ」と言った。
愛らしい彼女にそう誘われてしまえば、俺に断る選択肢などない。人間の少女から貰った白いハンカチをズボンのポケットに突っ込んで、ヴァッサーゴに肯定の返事を返した。
―――
――――
変態変質者の名を欲しいままにするサタンと幼女のお話。
ちなみに、ミラという少女とお母さんはこのあとヴァッサーゴに始末されてしまいましたとさ。嫉妬したようです。
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