第32話

その朝も、今日の予定などを伝えると、そそくさと部屋を出ようとする瀬奈。


どうも喧嘩をした後のような気まずさに耐えられず、ひろむは人払いをして瀬奈を待ち構えていた。


「瀬奈、今日も忙しいのか?」


立ち上がろうとする瀬奈に言うと「え?」と怪訝な表情。

それでも話を聞く様子で座り直す姿に、ひろむはほっとする。


「最近奥であまり姿を見ないので・・・」


「お寂しいのですか?」


二人の時にだけ、からかう様な意地悪を言ってくるのが、嫌ではなかった。


今の自分に、対等な態度で接してくるのが瀬奈だけだからか、気持ちが楽になる。


「寂しくはないが・・・妙によそよそしい気がしてな」


「・・・・・・」


複雑な表情で黙り込む瀬奈。

その瞳は穏やかだが、どこか悲しい感じがする。


目を合わせてこない瀬奈に小さく溜息をつき、ひろむは更に続ける。


「ふーは、どうしてる?」


「友達が出来たので、寂しくはないようです・・・御存知でしょう?」


「・・・・・・」


今度はひろむが黙り込む。


大奥はひろむが行き来する場所以外にも広いようで、将軍の生母や院、先代の側室達の住居も設けられている。

まりもの情報によると、上様の目の届くこちら側と違い物騒な事も多いという。


部屋の猫や金魚に何かある事など茶飯事で、瀬奈のところにふーを置くのはやはり正解だとか。


「なぜ犬を?」


「前から置こうと思っていただけだ」


「・・・逢いたいわ」


「・・・私の部屋に、いらっしゃいますか?」


瀬奈の低い声に返事が出来ず、目を泳がすひろむ。


その様子に、困ったように笑いながら息をついた瀬奈は、ひろむの傍へと近づく。

顎に手を掛け持ち上げ、じっと視線を合わす。


「あなたは思っていたよりも・・・」


吸い込まれそうな瞳と唇に誘われるのを抑えながら、瀬奈はじっとひろむを見つめる。


そっと間を詰めると、瞳が潤み、そしてゆっくりと閉じられた。


何も知らないような顔をして、目を閉じ唇を許そうとするひろむを憎いと思った。


心の奥底に抑えている、狂いそうな気持ちを掻き出されるようで、耐えられなかった。


そっと突き放すと、我に返ったように目を見開くひろむ。

驚きと悲しげな表情に、気持ちが緩みそうになるが、それ以上に苦しかった。


「もうあなたは、上様のものです」


言いたくなかったが、溢れた。

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