小墾田宮の女官

第2話

 やわらかな朝の陽射しを感じ、炊屋姫かしきやひめは辺りを見渡した。彼女がいる大殿おおとの内には、どうやら初春の風も一緒に入ってきているようだ。

 ※大殿:大王の寝殿


 炊屋姫は自身の玉座ぎょくざに座ったまま、手元にある団扇だんせんを仰ぎ、ふと独り言のようにして呟いた。


「これは初春の訪れを告げる風のよう」


 彼女の頭上にある金の髪飾りが、風に吹かれ、少し揺れている。


 前の大王であった泊瀬部大王はつせべのおおきみが亡くなり、自身が即位したあの日から、幾度この季節を迎えてきたことか。


 これまでも、国のまつりごとを滞りなく行っていくため、彼女は他の皇族や周りの有力豪族達をほどよくまとめ上げてきた。


 さらには他国とも積極的に交流を図り、そちらにも目を光らせて。


 だが彼女一人で、これだけのことをなし得るのは到底無理な話である。


 そこで炊屋姫は、彼女の甥である厩戸皇子うまやどのみこや、大臣おおおみ蘇我馬子そがのうまこといった、他の諸臣しょしん達の協力のもとに、この国をこれまでおさめてきていた。

 ※諸臣:多くの臣下達


 また厩戸皇子に至っては、さらに政をしっかりとした体制にするため、彼はまず【冠位十二階】を制定する。

 そしてその4ヶ月後には【憲法十七条】を決めた。


「大和の大王として、私がもっと毅然とした態度を取らなければ……」


 炊屋姫はふと玉座から立ち上がると、を少し引きずりながら、そのままゆっくりと大殿の出口へと歩いていく。

 ※裳:腰から下にまとった衣服


 彼女が外に出て辺りを見わたせば、宮仕えの者達が皆それぞれに、己の仕事に精をだして働いている様子がうかがえる。


 彼女のいるこの場所は小墾田宮おはりだのみやと呼ばれ、ここ飛鳥の地域に置かれていた。


 入口には南門が立てられ、入った先の左右には、それぞれ役所を担っているちょうと呼ばれる建物がそびえ立つ。


 そしてその間の朝庭ちょうていは、公式な行事等を行う場となっている。


 そして朝庭の奥にはさらに大門があり、その先に炊屋姫の住まう大殿が置かれているかたちだ。


 彼女が物思いに耽りながら眺めていると、ふと誰かの走ってくるような音が聞こえてくる。


 炊屋姫は一体誰だろうかと気になり、走ってくる者の姿を見る。どうやらこちらに向かってくるのは、わりと若い娘のようだ。



(まずい、炊屋姫様の元に行くのが遅くなっちゃう!!)


 その少女は、少しゆったりめな上着と、下は複数の色の入ったを、ヒラヒラとなびかせながら走ってくる。


 頭の上では髪の毛を一つに結わえ、両耳の横には輪っかを作っている。そして彼女が手に持っているのは木簡もっかんだろうか。


 またこの時代においては、隣の大陸の宮廷から様々なものが伝来している。

 そして彼女のように、その中には髪型や服装なども含まれていた。



 彼女は炊屋姫の前までやってくると、急に足を止め「ぜーはーぜーはー」と呼吸を整えだした。


(とりあえずは、何とか来れた……)


 その様子を見ていた炊屋姫も、相手が誰だか分かり、少し呆れたような口調で話す。


稚沙ちさ、あなたはまたそのように走ってきて。もっと女官としての振る舞いを正しくなさい」


 炊屋姫に稚沙と呼ばれたその娘は、何とか呼吸をおちつかせようとする。そして彼女の腕の中には沢山の木簡が見えかくれしていた。


「炊屋姫様、申し訳ありません。ここにくるのが遅くなってしまい、それでつい……」


 炊屋姫はそんな彼女の返事を聞き、思わずため息をつく。もっと彼女に女官としての立ち振舞いを覚えさた方が良さそうだ。


 炊屋姫に稚沙と呼ばれた少女は、今年で14歳になる。そしてここ小墾田宮に女官としてやってきてからは、早1年半程がたっていた。


 また彼女は豪族平群へぐり氏の額田部ぬかたべ一族の娘である。

 平群氏の同族である額田部は、馬飼部うまかいべとして主にうまやと馬の管理に従事していた。


 元々馬飼の技術は渡来人によってもたらされている。

 つまり平群氏とは、朝鮮半島との関係を持ち、騎馬技術を持つ馬飼部を支配している豪族で、軍事力も持ち合わせていた。


 また額田部は湯坐ゆえも担っていた。

 湯坐とは皇族の人間の養育を行う人々のことで、炊屋姫がまだ額田部皇女ぬかたべのひめみこと呼ばれていた頃、彼女の養育に従事していた。


 そんな一族の生まれである稚沙は、炊屋姫が見るに少々危なっかしい性格の娘のようで、仕事でも度々失敗を起こしている。

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