第20話

第11話:少年と曼陀羅華 前編


ドガッと鈍い音がして、リヒトは一回転ぐらいしながら畳敷きの床に転がる。

イテテと殴られた右頬を擦りながら立ち上がり、目の前の人物を見上げる。

今年で49歳の男。

整った顔立ちで誤解されやすいが、酔うと短気になる。

そして、暴力行為も日常茶飯事。

体はごつく、ボクサーのようだ。

そんなアイツ(父さん)はヒックと喉を鳴らしながら、罵詈雑言を吐いてくる。

「おい!この馬鹿野郎!邪魔なんだよ。目障りな。さっさと野垂れ死ね。」

アイツは酒を飲んでいた。

毎日毎晩、大量の酒を飲んでは俺に当たり、さっきの様に暴力暴言を繰り返している。

母さんも居るけれど、アイツからは居ないもの扱いされている。

暴力を振るわれず、アイツから無視されるだけなんて、なんて羨ましいんだろうと思った事は、今も胸にしまっている。

声をかけると、アイツが怒るので話しかけられずにいる。

唯一、家族皆が安らげるのはアイツが働きに行く、昼の間だけだ。

アイツが働くなんて、驚きだと思うだろう。

しかし、それはアイツの思考が古いからだ。

女は家、男は外。

その考えが頭に染み付いているだけ。

後は、『働いてる』と言うステータスが、威張れる理由にもなるからだろう。

まぁまだ働いているのと、暮らせるだけは家に金を払っているのでマシだと言えよう。

(多分払わなかったら自分も暮らせないのが分かっているから)

…だが、それ以外は全てアイツの酒代や娯楽に消えているのだが。

そんなこんなで俺の唯一の味方はばあちゃんだった。

名前は青山 梅子。

今年で76になるが、元気だ。

息子があんな感じだが、ばあちゃんは優しい。

アイツは父親に似たのだ、と、教えてくれたのを思い出す。

アイツの父親も暴力を振るう人だった、とも。

…ごめんね、とも。

ばあちゃんは俺達と同じ家に住んでいるが、敷地内の離れに住んでいる。

これは、アイツの嫌がらせではなく、ばあちゃんの意思だ。

離れと言っても、結構広く、もう一つ家があると言っても過言ではなかった。

そして、俺はばあちゃんと2人で離れに住んでいた。

アイツがいない時は。

アイツは俺を邪魔とか言う癖に、いないと怒る時がある。

それはストレスが溜まっている時だ。

サンドバッグが必要なのだ。

だから、アイツが帰る前に家に戻る。

帰ってきたら、アイツは酒を飲み、俺を殴り、母さんを幽霊とする。

それが俺の…青山家の日常だった。

そんな生活を送る俺を見て、ばあちゃんは良く俺にがめ煮を作ってくれた。

俺の好物だったから。

それを食べると、安心した。

食べている時、嫌な事、苦しい事、辛い事、全て忘れられた。

学校であった事や、他愛もない話をして過ごす、一時の空間は俺の心を満たしてくれた。

この時間があるから、俺は我慢する事ができた。

けれど、そんな日も何時かは終わる。

ばあちゃんに”あの話”を聞いた日から。

俺の中で何かが変わり始めていた。

「……カフェ?」

あの話とはカフェの事である。

ばあちゃんは昔、1度だけ冥界に行った話を俺にこっそり話した。

「そう。でも、ただのカフェじゃないのよ。…冥界、あの世にあるの。」

楽しかったわね〜と、その時の事を思い出したのか、微笑んでいる。

「何か食べたの?」

カフェなら料理の1つ、食べて帰るだろう。

だが、ばあちゃんは首を振った。

「…いいえ。食べれてないわねぇ、残念だけど。死んでないってわかったら、少し話してくれたけど、帰らされたわ」

ずっといると戻って来れなくなるから、と。

「そっか」

少し、残念に思った。

だけど、そこはとても楽しそうで、魅力的だった。

それから、俺はずっとそこに行きたいと思っていた。

だからずっとカフェの事ばかり考えていた。

なぜ、ここまで心惹かれるのか、自分でも良く分からない。

ただ、一刻も早くこの地獄から逃げだしたいだけなのかもしれない。

1日中、頭の中にあった。

その事を考えていると、頭がスッキリして生きるのが少し、楽になった。

幸先が良い時は足元に気をつけろ、

それは本当に正しい言葉だった。

有る日、母が俺の部屋に来た。

お茶の入った湯のみをお盆に乗せて。

でがらしだったけど。

俺は一歩後ずさった。母が一歩前進する度に俺も後退する。

母と会った、と言うかこんなに眺めたのは初めてだったかも知れない。

俺は母が部屋に来た事が衝撃的すぎて、ありがとうも言えなかった。

ただ、机に茶を置く母を眺める事しかできなかった。

母はドアを開けて、部屋を出る時、ポツリと何か話した。

それは本当にか細い声で、口先が動いている事しか見えない。

母はもう一度、俺を見た後、静かにドアを閉めて出ていった。

お別れするように。

俺は頭の中で母の口の動きをなぞった。

ーーー「ごめんね」ーーー

最初で最後に聞いた、俺にかけられた母の言葉だった。

暫く呆けて、動けずにいた。

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