第3話 鬼の家庭教師

朝が来るたびに、一樹はこの異世界での日々が現実であることを再認識する。


まだ夢のような感覚が残るが、目覚めれば決まってメイドが部屋を訪れ、支度を手伝い、そしてレイナが来る。


毎日、同じ時間に始まり、同じ時間に終わる。


この一ヶ月間、ずっと続いている単調で厳しい日常だった。


——


レイナとの授業は朝早くから始まった。


まずはこの国「ヴァル=カリス帝国」の歴史。


100年前に起きた「灰の病」の発生、その影響で男子が減少し、女性が支配的な地位を確立したことを、何度も繰り返し学んだ。


「この国の社会構造は、男子の激減により作り上げられたものです。あなたもその一部になるのですから、歴史をしっかりと理解しておくことが大事です」


レイナの教えは厳しく、容赦がなかった。


一度でもうわの空で話を聞いていれば、その鋭い目で咎められる。


「カズキ様、今の説明、聞いていましたか? 私たち貴族社会では、一つの言葉が重大な意味を持つこともあります。聞き漏らすことは許されません」


その度に、一樹は背筋を伸ばして謝るしかなかった。


彼女の指導は徹底しており、一つの失敗も見逃さない。


帝国の歴史や貴族社会の成り立ち、さらには政治的な関係性までも覚えさせられる。


——


歴史を学び終えたあとは、この国の文化や風習についての授業が続く。


特に重要だったのは、貴族社会におけるマナーだ。


食事の仕方から、挨拶のタイミング、社交場での立ち振る舞いまで、細かなルールが山のように存在する。


「この国の女性たちは、特にマナーに厳しい目を持っています。あなたがどれほど立派な血筋を持っていたとしても、マナーを欠けば信用を失います」


正しい作法で飲み物を口に運び、立ち方や座り方も細かく指導される。


一樹はレイナの監視下で何度も試され、少しでもミスがあればすぐにやり直しを命じられる。


彼の心は徐々にすり減っていく。


「これじゃあ、まるで……まるで日本のブラック企業と同じだ……」


独りごちるたび、苦笑が漏れた。


何かが根本的に変わったはずなのに、目の前の厳しい現実は、日本での過酷な労働とそう大差ないように感じるのだった。


——


そして、女性への接し方。


これは最も難しく、最も重要な部分だった。


女性が主導権を握るこの社会では、男性は相手に不快な思いをさせないよう、細心の注意を払う必要がある。


「貴族女性との接触においては、少しの失言や動作で失礼とみなされることがあります。言葉遣い、表情、距離感、すべてを考慮しなければなりません」


レイナは何度も、一樹に貴族女性と対面する場面を想定した練習をさせた。


目を合わせるタイミングや言葉の抑揚、微妙な仕草まで、繰り返し体に叩き込まれる。


「あなたはこの国にとって重要な存在です。だからこそ、完璧でなければならないのです」


その言葉は一樹に重くのしかかった。


異世界に来て自由を得るどころか、期待に押しつぶされそうなプレッシャーを日々感じ続けることとなった。


——


一日が終わる頃には、すっかり疲れ果てていた。


朝から日暮れまで、レイナの厳しい授業を耐え抜くことは、まさに修行のようだった。


日本での仕事とは違う種類の疲労が、体と心を襲う。


「これが……俺の役割か……」


何度も逃げ出したい気持ちが頭をよぎった。


だが、そのたびに、現実は変わらないと悟り、もう一度気持ちを立て直して授業に向かった。


彼には選択肢がなかった。


——


そうして迎えた一ヶ月後の最終日。


いつも通り、レイナは部屋にやって来て、最後の確認として、一樹に簡単なマナーと教養のテストを行った。


彼は今までの授業で学んだすべてを頭に詰め込み、間違えないよう慎重に応答した。


「では、これで終わりです。よく頑張りましたね、カズキ様」


レイナは少し微笑み、彼に向かって優しく言った。


それは彼女から初めて聞く、ほんの少しの温かみを感じる言葉だった。


「一ヶ月間、非常に厳しく接しましたが、あなたはそのすべてに耐え、よく学びました。これから、あなたは貴族女性たちとの接触において、必要な知識とマナーを十分に備えています」


一樹はその言葉を聞いて、ようやく肩の力を抜いた。


達成感と安堵が一気に押し寄せ、思わずその場に座り込みそうになる。


「……合格、ということですか?」


「はい、合格です。これからは、帝国におけるあなたの役割を果たすために、全力を尽くしてください」


レイナの表情は穏やかで、一樹に対する信頼の色がにじんでいた。


彼女に認められたことは、一樹にとって大きな一歩だった。


しかし、その先に待っている任務を考えると、まだ心の準備は整っていない。


「ありがとうございます……」


一樹はそう呟きながら、胸の奥に小さな希望と大きな不安を抱いて、新たな一歩を踏み出そうとしていた。

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