#002

 マスタード色、六センチメートルのそのヒールがサントノーレ通りの老舗カフェ、ヴェルレに鳴り響く。シャロンはレオとの約束の時間までまだ余裕があるため、コーヒーでも飲もうかとルーヴル美術館近くの喫茶店に立ち寄った。エスプレッソとドライフルーツを頼んだシャロンは二階の窓際で一時の余暇を楽しんでいた。

 ドライフルーツのいちじくを指に取ったその瞬間、スマートフォンが音を立てる。液晶画面を見てみれば所属する組織の番号が見えた。出ようか出まいか、と考えるシャロンは悪戯にいちじくを一口噛み、数秒電話口を待たせる。ただの遊びだがこの電話を出ないという選択肢は与えられておらず、シャロンは溜め息を吐いてから電話を取った。すぐに電話を取らないなどという小さな悪戯は電話口の相手にとって瑣末なことだろうと、シャロンは内心で思っていた。


〈コントロールコードをお願いします〉

「コントロールコード、MGI459。暗号化キー、AIA1」 


 店内は人は疎で、さらに二階席は人が居らず、シャロンは安心してコントロールコードを発音した。


〈エヴァ、単刀直入に聞くが昨晩のカーチェイスはどういう了見かな? 処理が大変だったと私の方に苦情が来ているが〉

「申し訳ありません。弁解の余地なく、私の責任です。今後二度とこのようなことがないようにいたします」

〈……できないことは約束しない方がいい。相手はあのバウンティハンターだと聞いている。二度とこのようなことがないように、などとおまえが言ったところで相手に仕掛けられてはどうしようもないだろう〉

「……」


 男とも女とも取れない機会音がシャロンの鼓膜を揺らす。組織の絶対的権力者はその姿を公にしていない。性別、年齢、すべてが闇に包まれている。だが、有無を言わさぬ高圧的なこの声を絶対だとして育て上げられたシャロンたちはこの声を頼りに生きてきた。そして、シャロンはこのトップに君臨する人間から“エヴァ”と愛称を貰い大事に育て上げられている。


〈まぁ、いい。昨晩はターゲットに近付けたのだろうな?〉

「はい。無事に」

〈では並行して暗殺の指令を与える。追って通達する〉

「かしこまりました」


 ぷつん、切れた電話に緊張の糸が緩む。軽く溜め息を吐きエスプレッソを一口飲んだ。悪戯をする程度の余裕があったシャロンだが、それでも電話口の支配力、威圧力は凄まじく、疲弊した体を椅子に預けてしまう。今まで幾多の危機を潜り抜け、それなりに場数を踏んだシャロンだが、それでもこの支配力には肝が冷える。ひとつでも間違えれば身の保証はない。


「レンブラントのどの絵にするか考えなきゃ」


 シャロンは疲労した体に鞭を打ち、レオに会うためカフェを後にした。

 大都市なら少なくとも一日に百人とはすれ違う。それは顔も覚えられないたった一秒の出来事だ。カフェ、地下鉄の隣に座る男、会計を待つ女。それは野放しになっている殺人犯とすれ違うことと同義である。百人の人間とすれ違う瞬間、そのうちの何人が犯罪者でないと言えるのか。はたまた、そのうちの何人か真のサイコパスなのだろうか。

 女、シャロンは一年に何人の人間を殺しているのか考えるのを辞めていた。いや、もう数えることが難しくなっていた。そんな各国を渡り歩く暗殺者は軽やかにルーヴル美術館に向かっている。

 Aラインのワンピースは風を纏いゆらゆらと揺れていた。そんなワンピースの中、レッグホルスターにナイフが隠してあるなどすれ違う人間の誰が知り得るだろうか。すれ違う人間はシャロンを見てすべての音が世界から遠退くような感覚を持った。その後は気怠げな溜め息を吐く。そんな熱の篭った視線など気にも留めないシャロンはいつもよりヒールの低い靴を鳴らす。

 レオ・サンチェスと交戦することなどないと思っているが念には念を入れ、愛用のカランビットナイフを忍ばせていた。ハンドバッグに銃は入っていない。

 シャロンはルーヴル美術館のリシュリュー翼に入っていく。足取りは決して早くはないが、お目当ての物に一直線のようで他の絵画にうつつを抜かすようなことはない。

 三階に飾られてあるレンブラントのとある絵画の前で足を止めた。絵の中に描かれている螺旋階段に目が釘付けになる。技巧を凝らした陰影に想いを馳せる。


「やぁ、ケイト」


 毅然としたその絵を見つめているとハスキーな声が聞こえてくる。隣に立った男性はシャロンよりも高身長だ。ふわり、シャロンは男を瞥見する。柔和な微笑を向けるレオが立っていた。


「君を見つけられてよかったよ。それにしても君が選んだのはこの絵か。良いチョイスだ」


 レオはシャロンの肩に手を回し、頬にキスをふたつ落とす。挨拶の意味があるそのキスをされると昨晩と同じイランイランの香りが体に纏わり付く。良い香りのそれに笑みが溢れた。が、その瞬間、ぴき、ッと肩に痛みが走る。ギルが噛んだ肩が痛い。噛まれた瞬間は血が出て、今では酷い内出血になっていた。 


「ありがとう。貴方はレンブラントのどの絵が好きかしら?」

「オランダにあるマウリッツハイス美術館に所蔵されている『キリストの神殿奉献』が好きなんだ」

「へー、宗教画が好きなの」


 シャロンはレオのえくぼが出る笑い方がチャーミングだと好いていた。レオはくすり、笑い、眼前の絵を指差した。


「今作も宗教画ではないか、と言われているみたいだよ」

「……貴方は物知りね。知的な方は好きよ」

「お眼鏡に叶いなによりだ」

 レオはその逞しい肉体にシャロンを抱き寄せ、絵画の前から立ち去る。

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