#011



 ギルは叫びながらオペラ・ガルニエを飛び出す。煌びやかに輝く劇場の前に停められていた一台の古い型の車に飛び乗った。レディーファーストなどしている暇はなく、ガンッと激しい音を立ててサイドブレーキを引き、勢いよくアクセルを踏み込む。走り始めた車にシャロンが飛び乗る。

 かん、ジョンの放つ弾丸がリアガラスを直撃した。

 いつものギルであれば女の肌を慈しむように自らの愛車のハンドルを握るが、今は背後のジョンを振り切ることに集中しているようで瞳を鋭利に研いでいる。どこかこのカーチェイスを諦観したような顔付きでハンドルを切るギル。


「どこ行く気?」

「俺に任せとけって」


 オペラ・ガルニエの回廊を走っていた時のハイテンションからは打って代わり悠然とした態度のギル。自らの冷静沈着、そして賢さを本領発揮する男は狡猾に、したり顔をし、古びた車を猛スピードで動かす。

 劇場を南に出た車は高級ブティックが並ぶラ・ペ通りを逆走していく。夜が深まるパリの街並みをトップスピードで駆け巡る。そのままスピードを落とすことなく、ヴァンドーム広場を突っ切っていく。夜に溶けたヴァンドーム広場は人があまりいないが、車の前に出てきた初老の男性にギルは慌ててハンドルを切る。カーブしたことで重力が発生する。ぐわり、体が傾く。ハンチングハットを被った男性は轢かれそうになり前のめりに転んだ。驚いて瞠目する男性をサイドミラーで確認するシャロン。どこにも怪我は無さそうだ。安堵したその瞬間、サイドミラーにはこの車を追跡するバイクが見えた。ハーレーダビッドソンに華麗に乗るケルピー。もとい、ジョンが黒髪を靡かせ猛追してくる。


「おまえはしつこい男がタイプか?」

「情熱的って言って」


 シャロンはベージュ色のドレスの裾を口で切り、太腿まで大胆なスリットを自ら作り上げた。シャロンの太腿にはホルスターに装着されたSIG P365があり、細いしなやかなシャロンの指がそれを抜き取った。シャロンの華奢な体に似合う小型銃。それを車窓から腕ごと出し、一瞬のうちに四発発射する。硝煙を撒き散らしながらジョンのバイクに何発か当たった。ヴァンドーム広場を突っ切る錆びた車はサン=トレノ通りをまたも逆走していく。ジョンのバイクが背後からこちらを追尾する。前方からは順走する車。両方を避けながらのカーチェイス。ジョンが撃つ弾丸がサイドミラーを破壊する。息つく暇なく、車体にも風穴を開けていく。シャロンの脳内にニヒルに笑うジョンが現れた。


「バックして轢き殺してやろうか」


 そうギルが言った時だった。激しい音が鼓膜を貫く。そしてギルの口から渇いた苦しい言葉が出てくる。


「…ぁ゛…くっそ! 撃たれた……あいつ、…殺す」


 どうやら車体を貫いた弾丸がギルの肉体に突き刺さったようだ。顔を歪めるギルだがハンドルは離さなず、猛スピードでオスマン通りを北西に進んでいく。

 ギルは背後を睥睨し、シャロンの手からSIG P365を奪った。車窓から銃を構える。一発の弾丸が美しい放物線を描き、ジョンに向かっていく。ギルが撃ったパラべラム弾はジョンの足に貫通した。バランスを崩したジョンはバイクから投げ出され、アスファルトに転倒する。

 荒い呼吸を噛み締めながらギルはオスマン通りを直走る。きゅるり、音を立てエトワール凱旋門を回り、シャンゼリゼ通りを錆びた車は走り抜けた。ギルは下腹部を押さえながら、額に汗を滲ませている。割れたリアガラス越しに背後を確認するシャロンだが、そこにジョンの姿は見えず、ライトアップされたエトワール凱旋門が見えるだけだった。

 ギルはちらりとシャロンを睥睨する。


「だからおまえ、の世話をするのは…、…嫌なんだよ」

「もう黙って」


 シャロンはふわり揺れるブランドの髪をかきあげながらギルの言葉を遮る。シャロンはいつもチェスの様な駆け引きに似た会話を繰り広げるが、今回ばかりは心配そうにギルを見つめる。運転を代ろうか、と思った矢先だ。ギルは細い裏路地に入り壁に車体を擦りながら車を停めた。ハンドルに突っ伏すギル。


「待ってて」


 シャロンは錆びた車を降り、細い路地を駆け走る。一軒の家を見つけ、扉を足で蹴り破る。オレンジ色のシェードランプが灯る質素な家に十二センチメートのハイヒールが静かに床を滑る。自ら作り上げた太腿のスリットのおかげで幾分か歩き易くなっていた。NAA-22Sはオペラ・ガルニエに棄ててきてしまい、SIG P365はギルが握り締めていたため、今現在シャロンは丸腰であった。拳を握り締めながら摺り足で部屋を見渡す。

 家主はいなかった。レコードだけが静かに回っている。ビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』が奏でられていた。


「……止血」


 シャロンは手当たり次第に棚を漁る。ギルの止血に必要なものを見つけるためだ。ここの家主は服にアイロンをかけたままどこかに行ったようで、不意にその三角の熱せられていた物が視界に入る。

 かたん、音が鳴る。瞬間的に棚に置いてあった裁ち鋏を右手に持つ。振り返った瞬間見えたのは、腹部を血で濡らし、青白い顔をしたギルだった。ギルはホールドアップの意味を込めてか、ひらり、手を上げている。


「見せて」


 シャロンはギルのスーツを持っていた裁ち鋏で切り、傷口に触れる。痛みでさらに顔を歪ませるギル。シャロンの肩に置いた手が痛みで強く握られた。


「いって…な」

「大丈夫。弾は貫通してるわ」


 シャロンは血で汚れた指先でアイロンの電源を入れた。そしてギルから離れ、キッチンを物色する。キッチンの戸棚から出てきたウォッカをギルに投げ渡した。


「死ぬほど飲んで」

「……あぁ、くそ! まじで最高だわ」


 ごくごく、とボトルに口を付けウォッカを飲み干すギル。その瞬間にアイロンは熱を孕んでいく。ギルは苛ついたように飲み干した瓶を投げ落とす。ギルとシャロンは互いを見つめた。


「肩噛んでいいよ」

「さんきゅ……」

「舌噛まないようにね」


 ギルは大きく深呼吸をし、シャロンの肩に噛み付いた。皮膚に歯が減り込み、ぎり、ッと音が鳴る。シャロンも眉間を顰める。


「いくよ。気を失うな」


 シャロンはギルの傷口にアイロンを押し当てた。言葉にならない絶叫が響き渡る。痛々しい咆哮であった。

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