#008



 シャロンは胸元に飼い慣らす大粒のエメラルドを揺らして、流れる車窓からパリを見つめる。

 夜のパリは宝石をぶち撒けたような輝きを見せる。夜に紛れるシャロンからすれば、明る過ぎる光の束が不健康にも見えてしまう。イミテーションな暗闇が増えた。自然界の動物も泣いている頃だ、そうシャロンは内心で感じていた。嘲弄する顔が車の窓に映っている。


「なぁ、シャロン」

「なぁに?」

「久々の休暇らしい休暇だな」


 シャロンとギルに休暇は与えられていない。人を巧みに殺すには何ヶ月、あるいは何年もかけた緻密な計画が必要なときもある。その瞬間の勘と瞬発力が大事なたった一日の仕事もある。だがそれが終わればすぐ違う仕事が入る。どんな仕事でも忙しさに変わりはない。地球には殺すべき人間が山の様にいる。


「だからって気を抜くなよ」

「はいはい、ダディ」

「キモいこと言うんじゃねぇよ」


 ギルの激しい舌打ちが聞こえ、ふふ、と笑うシャロン。確かにギルの言う通りふたりにとって束の間の休息だった。

 濃紺の空に欠けた月が飾られている。シャロンの瞳は月で煌めいていた。

 ほどなくして車はオペラ・ガルニエに到着する。車中で煙草を燻らしたギルは最初に車から出て、シャロンが座っていた側の扉を開けた。煙草を咥えアッシュグレー色の髪の毛を携えた男は煌びやかに着飾った妖艶な女の手を取る。

 少々強引なレディーファーストはギルの禍々しく危険な男の匂いを何割かプラスさせていた。夜の闇に漂う芳しい傍若無人な香り。見るものすべてに緊張感を与えるが視線も誘う。美しきサイコパスはどこかの国のプリンスに見えるのだから面白い、シャロンはそう思いながらエスコートされていた。彼の手でオペラ・ガルニエに敷かれたレッドカーペットを歩く。傍若無人だがチャールズ三世の前に出しても恥ずかしくない男がギルという人間だった。 


「……武装は?」

「レッグホルスターにSIG P365。ハンドバッグに念のため、NAA-22S」

「相変わらず良いチョイスだ」

「二十二ショート弾なんて味気ないけど、今回みたいな武装する必要のないときは小さくていいわね」

「二十二口径の銃の成績は?」

「……トップよ」


 長距離狙撃銃であるTAC-50の五十口径から百十三・四グラムしかない世界最軽量の二十二口径の小型銃まで難なく扱えるこの女を誇らしく思うギルだった。

 ギルは傍から取り出した携帯灰皿に煙草を押し潰す。シガレットケースと共に懐に仕舞い直すと、シャロンの手を引き、オペラ・ガルニエに入っていく、ふたりは周囲の熱烈な視線に気付かず──気付いてはいるが、羨望の視線に構っている暇はない──バンケットスタッフからシャンパンを受け取った。 


「ターゲットは居るか?」

「あら、随分早急ね。前戯の短い男は嫌われるわよ」

「……」


 シャロンの揶揄う言葉にギルは睨みを効かせながら黙り込む。数秒、無言の応酬が繰り広げられた。溜め息を吐いた後にシャロンの美しいウェーブを描く腰に手を這わせ、自らの痩躯にピッタリと女の身体に密着させたギル。 


「おまえはマリリン・モンローにもグレース・ケリーにもなれる女だが、そのよく回る口を閉じねぇと嫌われるぜ」

「褒め言葉として受け取っておくわ。あいにく男社会に食い物にされる女性にはなりたくないの」


 ギルの言葉通りマリリン・モンローを彷彿とさせる、柔らかいブロンドヘアをふわり、揺らし笑うシャロン。チィッ、ホルスターからナイフを抜くときの様な険しい舌打ちがギルの唇から鳴らされる。


「女の扱いが下手ね」


 シャロンはそのしなやかで細い指先でギルの頬を優しく撫でると、気まぐれな猫の様に彼の腕から逃げ出した。赤いルージュが揺れる艶美な唇で一口シャンパンを飲む。

 その姿はギルの征服願望に火を付けるには安易だった。こくん、生唾を嚥下するギル。否応なく体の芯を熱くさせるシャロンに苛立ちを覚える。


Bonne nuit,mon おやすみ、坊やchéri.」


 これ以上付いてくるな、の意味を込めた別れの挨拶をするシャロンは人の波に消えた。シャンパンを片手に鷹揚にオペラ・ガルニエの大階段を上がっていく。


 オペラ・ガルニエはオペラを鑑賞する場所であったと同時に上流階級の社交の場でもあった。それを彷彿とさせる白色の大理石の階段をゆったりと上がり、シャロンは一階を見つめる。

 捕食者の瞳がターゲットを見つけた。同じ一階にギルの姿は見えず、「坊やは寝たか」と安堵の溜め息を吐いた。パートナーとしてギルは素晴らしい仕事をするが、ひとりを好み、孤独に好かれた女には相容れぬ距離感だった。

 シャロンは悟られぬようにターゲットを観察する。写真で見た通り、三十代後半と見えるブラウン色の髪を携えた男性。左手薬指に指輪あり。頬のえくぼがチャーミング。スーツも一流の物を着ており、体格も良い。アメリカの平均身長である五フィート九インチはゆうにある。美しいオペラ・ガルニエに引けを取らない男性。

 男の肩が不自然に左に下がっていることに、シャロンは気付く。銃を所持している。こんな場所にまで銃を所持しているところを見れば、余程腕が立つ同業者か、はたまた腕に自信のないチキン野郎か、どちらかだな、と鼻で笑う。

 シャロンは一度シャンパンをすべて飲み干し、バンケットスタッフが持つトレイに置いた。またコンベアのように流れてくる違うバンケットスタッフのトレイからワインを手に取った。赤ワイン。それを手に持ちターゲットに近付く。


「きゃ、」


 からん、グラスが落ちる音が騒がしいフロアに響き渡る。ワインが床に飛び散る音や周りの客の悲鳴など、シャロンの耳はすべて拾っていた。男性のハスキーな声もシャロンの耳の中へ滑り込む。

 シャロンは振り返りざまのターゲットに近寄り、わざとワインを自らに引っ掛けた。古典的で陳腐だがこれはこれで役に立つ。


「すまない! うわ、ドレスが台無しじゃないか……」

「ごめんなさい。私が余所見していたから……! あなたのスーツを汚したかしら?」

「私は大丈夫だよ。だが君の美しいドレスが……」


 シャロンはいつもの高飛車な口調をできるだけ潜め、可愛らしい女性的な声色を作る。そしてわざとらしく慌てた。

 二階でその様子を見ていたギルは「よくやる」と内心でシャロンを嘲弄していた。

 シャロンのドレスは胸元が赤ワインで汚れてしまった。これではドレスコードが台無しだ。騒ぎを聞きつけたバンケットスタッフが冷静沈着にタオルをふたりに差し出した。


「君、オペラはどの席で観る予定だい?」

「バルコニー」


 ターゲットがスーツを脱ぎ、シャロンの肩にそれをかける。ふわりと甘い香りがシャロンの鼻腔を擽る。


「おいで。私のボックス席に案内するよ」


 汚れたドレスを周囲の人に見せないように、と男は言葉を付け加えた。ふとシャロンは男の左脇腹を見つめる。そこには銃はなかった。

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