#007


「マティーニを」

「かしこまりました。私どもの作るマティーニは六対一になりますが、そちらでよろしいでしょうか?」


 シャロンは十二センチメートルのピンヒールを鳴らし、滞在しているホテルのバーに立ち寄る。

 シャロンは入念に身支度をしたが、それでもソワレまでにはまだ大分時間があった。部屋で時間を潰そうかと思い、一瞬、退屈を飼い慣らしたが、ふと、このパラスホテルにはバーがあることを思い出す。

 重厚なカウンターと革張りの椅子が出迎えるこのバーは照明を絞り、微かに聴こえるジャズが耳に心地良い。シャロンは来て正解だ、と確信した。空間もさることながら、ジンとベルモットの比率を六対一にするドライ ・マティーニがここの主流と知り、辛口がお気に入りのシャロンは希少な幸せを噛み締めた。


「えぇ。オリーブをふたつ付けてくれるかしら?」

「かしこまりました。少々お待ちを」


 蝶ネクタイをした初老の男はシャロンに朗らかな笑みを浮かべ、無駄のない手付きでステアをしていく。所作の美しいそれを見るのはシャロンにとって良い時間の潰し方だった。カクテルグラスに注ぎ込まれる液体。オリーブがふたつ入り、最後にレモンが搾られた。プロの仕事を見たシャロンは、ふわり、笑みを携え、マティーニを口に含んだ。シャロンは仕事柄、人を観察することに長けている。プロの仕事を見るのは、美味しいものを食べることより好みであった。


「同じものを」

「……」


 美しいものと美味しいものに舌鼓を打っていれば隣に音も無く誰かが立った。不作法にも煙草に火を付けるのだからシャロンは小さな溜め息を吐いてからグラスを置いた。


「少しは遠慮して」

「それはなにに対してだ? ここに来たことか? バウンティハンターとのデートを邪魔したことか?」

「自覚があるところが益々嫌いだわ」


 アッシュグレーの髪の毛を撫で付け、タキシードに身を包んだギルにシャロンは再度溜め息を吐く。ベージュ色のドレスに身を包んだシャロンの隣に立つギルは誰がどう見ても女のエスコート役であった。美貌を惜しげもなく利用した男は、ふ、ッと鼻で笑うとシャロンと距離を縮める。


「……いつだってあの男が絡むと面倒なことになる。尻拭いは勘弁だからな」

「私たちバディじゃないのよ」


 ギルはシャロンのその言葉に柳眉を少し上げ、不機嫌そうにマティーニを呷る。齟齬のないように、と釘を打つ女はやはり人殺しの才能がある。

 ギルはシャロンに少しばかりの執着を持っていた。支配欲求、征服願望、言葉で説明はつくが、どれもピッタリ自らの感覚に当てはまるものではなかった。


「そういう文句は上に言うんだな」


 シャロンとギルはバディではない。それは確かだった。だが、シャロンは秘密犯罪組織のトップから熱烈な愛情を受けて育ってきた。秘密組織の最高傑作としてなに不自由なく過ごしている。

 ギルは不測の事態になったとき、シャロンの身代わりとなり死ぬことを強要されている。それがギルに与えられた最期の仕事だ。だからギルとシャロンは組織の上層部からよくバディを組まされていた。


「オペラ・ガルニエまでお願い」

「……ガルニエ? オペラ・バスティーユじゃないのかよ」


 ギルという邪魔が入ったがマティーニを楽しんだシャロンは迎えの車に颯爽と乗り込み、運転手に目的地を伝えた。人を細切れにするのが嗜好のギルだがレディーファーストは忘れない。シャロンの手を取り、彼女を先に車に乗せ、その後自身も車に乗る。ふたりの一連の動作は年齢を忘れさせるほどに成熟していた。

 運転手は静かに車を走らせる。シャロンの滞在する八区から離れていく車。車の行き先はオペラ・ガルニエのある九区だ。


「芸術監督の意向らしいわ。いいじゃない。久しぶりの観劇がガルニエだなんて」

「ファントムに連れ去られるようなことになったら連絡しろよ。助けずに帰るから」

「あら。 たまには粋なことを言うのね。私にとってのファントムは誰かしら……」


 ふふ、とギルの戯言を笑うシャロン。オペラ・ガルニエは『オペラ座の怪人』の舞台になった場所だ。

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