#002

 女の姿は昨晩の安モーテルから打って変わり、高級ホテルにあった。元来こちら側の人間だと思わせるような品格と上質さを兼ね備えているため、高級ホテルで辱めを受けたことはない。むしろ、安モーテルに居ることが場違いであった。安モーテルでファーストフードのハンバーガーに食らい付くこともキッチュで女の魅力を倍増させるが、やはり女は赤色の絨毯に、シャンデリア、ロココ調の設え、そして専属のコンシェルジュが常駐する場所が似合う。もちろん女が滞在する部屋はテラス付きスイートルームだ。

 容貌の優れた者たちを見慣れているはずのホテルマンも女の美貌の前では瞠目してしまう。紳士な皮を被りながら、女の動向を知りたいと内心では考えていた。地位も名誉もある客も羨望の眼差しで女を一瞥していた。そんな憧憬の視線に慣れている女は誰もが見惚れる笑みを携えホテルを出る。屈強なドアマンは一瞬、自らの仕事を忘れ、女に釘付けになったがすぐさまホテルの重い扉を開けた。


Merci beaucoup. ありがとう


 発音が良く仄かにセクシーな吐息混じりのフランス語がシャンゼリゼ通りのある八区に響く。

 女は自らの武器を存分に活用した体のラインが出る黒色のワンピースを身に纏っていた。小振りなハンドバッグひとつ、ゴールドのピアスひとつ、そして揺れるブロンドヘア。女は着飾らなくても自らが美しいことを知っている。そしてそれは道ゆくすべての者が納得するところであった。

 女が美しいことは周知の事実だが、その小振りなハンドバッグに小口径の銃が隠されていることを知っているのは女だけだ。ワルサーPPKがルージュと一緒にハンドバッグに入っており、太腿のホルスターにはカランビットナイフが息を潜めていた。


Bonjour, madame .いらっしゃいませ


 女はシャンゼリゼ通りに構える老舗喫茶店に足を運んだ。老舗とあって観光客はまばらに居る。

 女は蝶ネクタイをした男性店員に「静かな場所はあるかしら」と一言。店員は「あなたのためなら」と、下心を紳士的に隠し、女をテラス席に案内した。女が座る席の周りに予約席と書かれたプレートを置く。一等大事にされる女は慣れた様子で店員に椅子を引かれ、テーブルに着席した。ソプラノの声を響かせ、注文を行う女。店員は一礼し、注文の物を取りに消えていく。


 女は名乗るとき、シャロンという名を使う。旧約聖書の『雅歌かが』二章一節「私はシャロンの薔薇、谷のゆり」から取った。

 女──シャロンの父は、三十六人を殺害したとして名高いシリアルキラーだ。父から貰った元来の名はエージェントになる時に捨てた。


 シャロンはシガレットケースから煙草を一本取り出した。かちん、かしゅ、拷問にも一役買うシルバーの上等なライターで煙草に火を付けた。シャロンにとってハンドバッグに入る物は化粧品以外ならすべて武器になる。ハンドバッグに化粧品を入れるということは、余裕の表れと同義だった。ヒールの高い靴、いわゆるピンヒールはベルリンでの暗殺で使用された。男をヒールで殴り殺すのはシャロンが得意とする接近戦の形のひとつだ。


Merci.ありがとう


 運ばれてきたエスプレッソにシャロンは店員の顔を一瞥し笑みを浮かべ、そう蠱惑的に感謝を述べる。男性の店員は今日は良い日だ、と喉を慣らし、一礼して再度女の佳麗に舌鼓を打つ。

 シャロンは小さなカップをそのしなやかで細い指に持たせ、コーヒーを喉に流す。こくん、嚥下される音さえ色香を放っており、美しさを存分に垂れ流していた。

 暗殺者として活動する女がこんなにも美しさで周りを魅了していいのか? と同業者は考えるが、シャロンがこれまでにヘマをしたことは一度もない。他者の記憶に残ることは良しとされない社会で生きているのは確かだが、この華麗な女が殺しを専門としているという思考回路に落ちる者がそもそも存在しない。また殺しの腕が良いぶん、昼間のシャロンと夜のシャロンは乖離していた。昼間と夜に明確な境のある女。自らの外見で仕事に支障があれば、面倒だが殺してしまえばいいとも考える。先程、コーヒーを持ってきたギャルソンが女を暗殺者だと気付き、警察に相談するようなことが万が一でもあれば迷わず殺す。シャロンにとって殺害は安易であり、また、得意なことでもある。罪悪感を覚えることは全くない。


「Darf ich mich neben Sie setzen?」


 不意にシャロンの耳に入ってきた、隣に座ってもいいか? というドイツ語。シャロンはひとつ溜め息を吐き、煙草を咥えながら声のした方に目線を辿らせる。気怠げな溜め息と煙草の紫煙が混ざり合う。シャロンは目線を上げなくても、そこに誰が居るのかを理解していた。


「ここはフランスよ。フランス語で話してくださる?」

「ローマではローマ人のようにしなさい、か。隣に座ってもいいかい?」

Bitte.どうぞ


 シャロンは皮肉混じりにドイツ語で着席を許可した。シャロンの隣に座った男は、アイコンタクトで店員を呼び、同じエスプレッソを頼む。店員は女に連れがいたことを心底嘆き悲しんだが、女に似合う容姿端麗なドイツ人に納得せざるを得なかった。ダンディな髭を携えた男はシャロンに向き直り、慣れた手付きで距離を詰めた。


「ギルはどうした?」

「あの獣は夜行性よ。それに普段から行動を共にしているわけじゃないわ。相棒でもあるまいし」

「そうだった。忘れていたよ。君は常にひとりだ」

「可哀想だと言いたいのかしら?」

「美しく強い者は孤独と共に居る。それが世の常さ」


 シャロンは男の名を知らない。男は語らず、シャロンは訊かない。それが彼らの均衡の取れた関係だった。だが、名を知らずとも両者は異性。女と男は互いに腹の内を探り合い、夜を共にしたこともある。

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