第29話
思い切り、腕を振りかぶって、その箱の壁のような部分を殴り付けた。ガッとぶつかるような音が出る。他人が聞いたら痛そうな音だと思わず声を漏らしてしまいそうな程度には、その音は低く鈍い音を出していた。
それでも、珠璃は壁を殴る事をやめない。鈍い音が辺りに響き渡る。珠璃が壁を殴り続けている間も、“声”は響いてくる。痛みと苦しみだけを訴えてくるその声に、珠璃は苛立ちを隠せなくなっていく。壁を殴りつける力も、心なしかだんだんと強くなっていく。痛い、苦しい、そんな言葉を言うだけ言って、自分では何も行動を起こそうとしいないその声に、珠璃は苛立ちを隠せないのだ。
声が出ないことがもどかしくて仕方がないのに。それでも、珠璃は必死に口を開ける。喉を震わせる。
そして。
「――甘え、な、いで、よ……!」
ようやく、絞り出たその声は、本当に小さな声で、ともすれば珠璃が先ほどから殴り付けている音の方が大きいほどなのに。それでも、何故か。響くようにその声はその空間の中にこだました。
「痛い? 苦しい? そんな思いをしているのは、あんただけじゃない! そう言いたくても言えない人がたくさんいるこの世界で、何甘えた事を言ってんのよ!? 痛くても苦しくても、歯を食いしばっている人はたくさんいるわ! 私をここに呼び出して、声を封じたわりには訴えていることが小さいんじゃないの!? そんなもの、自分でなんとかしなさいよ!!」
珠璃が叫ぶ。声が戻ってきた。まるで塞がれていたような感覚が嘘のように発声はしっかりとしている。
だからこそ、珠璃は珠璃の主張を声にしてぶつけた。
「苦しいと思うのならもがきなさい! 痛いと思うのならその痛みをなくすための努力をしなさい! どれだけ声を上げたって、結局は自分自身で解決しなければならないことなんてこの世に中にはたくさんあるんだからっ!!」
根性論とも取れるその言葉に、ずっと痛みと苦しみを訴えていた声も戸惑っているのか、何も言ってこなくなる。
「……それでも、自分ではどうしようもないことも出てくるわ。だから……そう言う時に声を上げて。そうすれば、きっと助けてくれる人はいるはずだから……」
そう言った瞬間、意識が遠のく。目が霞む。体が平衡を保っていられずに傾いていく。
そうして、意識を完全に手放した。
◯
目覚めて珠璃は少しだけどうすればいいのか分からなくなった。寝台の上で体をうつ伏せにして横になっているのはわかる。けれど、ずっと感じていなかった痛みで体がいう事を聞かない。
どうして、と疑問が湧いてくるけれど、今日という日はとても大切な日であり、春嘉達に無理を言って自分の案を飲み込んでもらい行動に移す日だ。そんな中で体がやっぱり痛いから延期してくれなどということは流石にできない。
なんとか痛みを訴えてくる体を動かして体を起こす。と。
『……無理をしてはいけません、珠璃さん』
そっとかけられた声に少しだけ驚いてそちらに視線を向ければ、そこにいるのは兎の神使だった。心配そうに揺れている真紅の瞳を珠璃に向け、兎の神使はひょこひょこと珠璃に近づく。うつ伏せになっている珠璃の頬の近くまで来た兎の神使はそのまま珠璃の頬に己の鼻先を寄せた。
「……私が、どうなったのか分かっているのね?」
『……はい。気配を感じました。苦しそうにしている、神使の気配を……』
「あなたは、夢を覗くことができるの?」
『できません。そう言った能力を持つ動物であるのならば別ですが……僕は、あくまで兎ですから。……そして、青龍をお支えするためにいるんです』
「でも春嘉さんは、あなたたちに拒絶されたと思い込んでいるみたいだったわ」
『……そう、思われても仕方のない事をしたんですよ。僕たちは。……決して許されない、間違いです』
「……そう」
それしか言えない。もちろんそれもあるけれど、それ以上は珠璃が知ることでは無いと思い、珠璃は口を噤む。首を突っ込みすぎてもいいことなど何もないというのは、すでに嫌というほどに知っている事実であり、そして、それを現実として身をもって体験してきた。
だからこそ、他人の事情に踏み込みたくはないと考えてしまう。
話を聞いてほしそうにしているのを気づきながら、珠璃はそれを突き放すことしかできないのだ。
「……例えば、それを私に言ったとしても私はそれに答えてあげられないわ。だって、私は無関係の人間で、その溝に介入することのできない人間だから。それは、あなた達自身が解決心ければならない事なのだと思うけれど?」
『……おっしゃる通りですね。……いえ、申し訳ありませんでした。何か、力になれることがありましたら言ってください。では、もうわずかしかありませんがゆっくりとお休みを……』
「……ひとつだけ、お願いしたいことがあるの」
「?』
珠璃の言葉に、兎の神使は言葉を止める。
そして、珠璃のそのお願いを聞いて目を見開く。まさか、という思いと、なるほど、という思いがないまぜになる。それでも、彼女の瞳を見ればそれは真剣そのもので、兎の神使はしばらく沈黙した後、しっかりと頷いて珠璃のお願いを飲み込んだ。
決して他人には漏らすことのできないその珠璃のお願いに、兎の神使の方が泣きそうになりながら。それでも、しっかりと頷いたのだった。
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