第5話

「虫が喰っているだと? 先日見たときには、何の異常もなかったが……」


「間近でよく見てください。葉っぱが食害されていませんか? 早く手を打たないと、取り返しのつかないことになるかもしれませんよ」


「それは困る! あれは、亡くなった母が大切にしていた庭木なんだ」


 手に持っていた鉢植えをその場に置き、章吾は仕事鞄だけを持って慌てて走り寄る。

 拡大鏡で木を入念に観察する章吾を、千尋は黙って見ていた。


「これは酷い。葉っぱは太い葉脈だけを残して喰いつくされているし、枝にも裂けたような筋がある。いつの間に、こんなことに……」


 鞄から噴霧器を取り出した章吾は、慣れた手つきで薬剤を注入すると噴射させる。

 それを数回繰り返し、ようやく息を吐いた。


「とりあえず応急処置はしたが、しばらくは経過観察が必要だな。それにしても、君はこれだけある庭木の中から、遠目で見ただけでよく気付いたな?」


「……木の悲鳴が、聞こえたのです」


「ん?」


「いえ、何でもありません! それより───」


 怪訝な顔をした章吾へ、千尋が顔を向ける。


「───お客さんは、お医者さまなのですか?」


「医者は医者でも、人相手ではなく木の医者……『樹医』だ」


「『樹医』……そんなお仕事があるのですね」


 千尋の大切な桜の木を救うことができたのは彼が樹医だったからと知り、同時に納得もする。

 素敵な仕事だと、千尋は思った。


「近年になって異国より伝わった仕事だから、まだ知らぬ者も多いだろうな」


 高鷲材木店の始まりは、章吾の祖父である吾右衛門ごえもんが田舎で興した木材店だ。

 それを都へ移し材木商として大きくしたのは、二代目である父の吾郎ごろう

 その父が亡くなり、若くして三代目を継いだのは章吾の兄で長男の賢吾けんごだった。

 次男の章吾はまだ珍しい樹医という職に就き、三男の大吾だいごは植木屋をしている。

 高鷲三兄弟は、それぞれ木に関係した仕事をしているのだ。

 

「おじさま、おかえりなさい」


 いつものように縁側へ日向ぼっこに来ていた加代が、章吾の姿を見かけ庭に出てきた。

 まだ初夏とはいえ強い日差しを避けるために、後ろには女中が日傘をさし付き添っている。


「まあ、今日も鉢植えがいっぱい! もしかして、こちらの方は……」


「ああ、賭けの相手だ。こちらは、鉢植え売りの千尋だ」


「まあ、おじさまったら……ふふふ。はじめまして、わたしは姪の加代と申します。先日はすてきなボタンを選んでくださり、ありがとうございました……千ひろ


「すごい! 私を女と見破ったのは、お嬢様が初めてですよ」


「……えっ、君は女性だったのか! 年はいくつだ?」


「私は十八歳です。普段はこんな恰好をしていますし背も低いですから、少年に見られることが多いですが」


 千尋が麦わら帽子と手拭いを脱ぐと、長い髪がハラリと落ちた。

 そこに現れたのは、紛うかたない女性の姿だ。


「改めまして、千尋と申します。おじさまには、大変お世話になっております……特に、売り上げの面で」


「ふふっ、おじさまがこんなに女の人へお金をつかっているなんて皆が知ったら、きっと驚くわ」


「かもしれないですね!」


「あのな……」


 呆れ顔の章吾の視線を物ともせずキャッキャと笑い合う二人は気が合うのか、もうすっかり仲良くなっている。

 生まれてすぐに母を亡くし兄弟姉妹もいない加代にとっては、千尋は歳の離れた姉のような感覚なのだ。

 

 本来であれば、大店の娘と出入りの鉢植え売りがこのように親しく話すことなど許されない。

 こんな平和な時代でも、階級心理は明確に存在しているのだ。

 章吾自体がそれをあまり意識しておらず、姪の楽しそうな表情を微笑ましく眺めているため問題にはなっていないが、もしこの場に女中頭が居れば確実に面倒なことになっていただろう。


「……それでね、千ひろさんの選んだ鉢植えの花を見たおじ……ゴホッ!」


 加代が急に咳き込みながら倒れ、傍にいた千尋が慌てて抱きとめる。


「加代!」


 小柄な体格の千尋では支えきれないため、すぐに章吾が抱きかかえ母屋へと運ぶ。

 後ろから女中が続き、その後ろから鉢植えを持った千尋もあとを追った。


「加代、大丈夫か?」


 加代を縁側に座らせると、章吾は女中へ薬を取りに行くよう命じ背中をさする。

 席を外した女中に代わり、千尋が日傘を加代へさしていた。

 薬を飲んだ加代の咳はひとまず落ち着いたが、呼吸をするのも苦しそうで、ただ見ていることしかできない千尋は胸が痛む。


「……千ひろさん、驚かせてごめんなさい」


「お嬢様、無理に話してはダメですよ。また、発作が起きるかもしれませんので」


「もう…大丈夫。これまではずっと落ち着いていたけど……最近急に発作が起きるようになって…学校もずっと休んでいるの。初めて発作が起きたときは…皆が驚いてしまって……」


 目に涙を浮かべた加代の頭を撫でた章吾は、ハンカチをそっと手渡す。

 黙って受け取り涙を拭う加代の姿は、先ほどまでのはつらつとした姿とは打って変わる。

 色白の肌も相まって、儚く消えてしまいそうなほど心許なく見えた。


「体が薬に慣れてしまったのか、半月ほど前から急に体調が悪くなってね……それで、少しは慰めになるかと鉢植えを買っていたんだ」


 加代の背中をさすりながら、章吾が話を続ける。

 姪が千尋へ事情を話したいという気持ちを、叔父は正しく理解していた。


「……この薬袋は、『三条薬房』のものですよね? 姪御さんは、以前からこちらの薬を?」


 薬を見たときから、千尋は非常に気になっていた。

 自分の予想が当たっていないことを、心の中で祈る。


「二年くらい前までは別の薬房の薬を飲んでいたが、その店が無くなってしまった。だから、主治医から紹介されたこの店のに切り替えたのだが、これまでは特に問題はなかった」


「やっぱり、最近の薬の効き目が悪くなっているのですね……」


 残念ながら、千尋の懸念は現実のものとなっていた。

 自分のせいで苦しんでいる少女が目の前にいる。

 その事実が、千尋をも苦しめる。


「君も『三条薬房』を知っているのか?」


「え、ええ……まあ。有名な薬房ですからね」


 千尋は言葉を濁し、曖昧に微笑むことしかできなかった。

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