第35話

小さい頃から、母には、姿勢が悪いとよく𠮟られた。


試験の点数が悪くても怒られたことはなかったが、

試験勉強をしているとき、背中が丸くなってると怒られた。


食卓でも、好き嫌いより、食べ方がだらしないと叱られる。

おかげで、近視でもないし、

もぐもぐとよく噛むという習慣がついている。


母は私にバレエを習わせて、親子で共演したい、という夢を持っていたが、

幼稚園の頃か、母が講師を務めているバレエ教室での初めての発表会の時、

メイクをされ、その顔を鏡で見たとき、私は大泣きしたのだ。


周りのお友達やお姉さんたちのメイクした顔も怖かった。

それから私は頑としてバレエを拒否した。


母はあきらめたが、

機会あるごとに、私の姿勢をチェックした。


「ね、ジジ。とにかく丹田よ。」

と母は、言いながら自分の下腹を押さえた。


「ここを意識して。むつかしいことは言わないわ。

ここを引っ込めるだけ。でも、それを常にするの。

常に丹田を意識して、下腹を引っ込めておく。それだけでいいわ」


「あれこれ言わないわ、ひとつだけ。」

というのが、母の口癖だった。


 確かにそのときは、ひとつだけ教えてくれるのだが、

そのひとつが、いくつもあった。

でも、大事なことをひとつずつ教えてくれていたのだ。


「ほら、首は前に出さない。

スマホ首なんてもってのほかよ。

むしろ、首は後ろって思った方がいい。

後頭部を後ろの壁につけるように、まっすぐにするの。」


「いい姿勢になろうと力むと、肩に力が入って、腰が反ってしまう。

力を抜く、ってすごくむつかしいの。だから、ひとつだけ。

肋骨を閉じる、これだけ覚えていて。

でもこれも本当にむつかしい。だから覚えているだけでいいわ。


え?やり方?知りたい?うふふ。あのね、呼吸が大事なの。

息を吐くとき、吐ききって、肋骨を閉じる。決して力まない。

そうそう、そんな感じ」

 

蘭丸になる前の綺麗なママの姿が浮かんだ。


そうだ、最後の教えは、確か、ヨガの呼吸法だった。

ヨガの呼吸法は、バレエとはまた違うのよ、と母は言っていた。


「ジジ、ママはバレエをやめて、ヨガを始めたでしょ。

ママ、インドで学びたいのよ。」


ああ、そうか。

もしかしてママは、インドに行ってるかも。

唐突に私は思いついた。


「川崎さん、どうしたの?」

丸田さんに腕をつつかれて、我に返った。


「あ。ごめん。ぼんやりしちゃって。」

私は二人に謝った。


「この人、ほんと浮世離れしてるから。」

と丸田さんが川北さんに笑って言うと、

川北さんはあきれた様子も見せず、

「いや、それも好材料よ。部長に推薦してみるわ。

ナイス人材ありがとう、丸ちゃん。」


「ちょ、待って。私が演劇なんて。

ていうか、あの、舞台メイクが苦手で。」

と慌てると、二人はぷっと吹き出した。


「いきなり言うのが、舞台メイクって、

さすがだわ、川崎さん。いいじゃない。

部長さんがなんて言うかわからないし、

言われてから考えれば?

え?あ!蘭様よ!」

丸田さんの声が最後に裏返った。川北さんが振り向く。


蘭丸が、廊下をこっちに走ってきていた。


「これはこれは・・。」

と川北さんがつぶやいた。


「噂以上の美形だわ。ぜ、ぜひ、演劇部に入っていただきたい。」

と、川北さんの目がキラキラと輝いた。


私には見せなかった表情だ。

私はなんだか面白くなかった。


しかし、走り寄る蘭丸は、私しか見てなかった。


これは私のプライドをくすぐり、ちょっと気分が良くなる。

いい気なもんね、美々子。


川北さんと丸田さんの方を見ると、

蘭丸がどこを見ようがお構いなしだ。

ふたりとも、蘭丸の美しい顔を食い入るように見ていた。


確かに、今の蘭丸は、私のことが心配なあまり、

無防備になっていた。

いつもの周りを常に気にしてあざとくふるまう蘭丸ではなかった。


それゆえか、なんだか、いつもより美しく感じた。

例の感情の高ぶりで、頭がまた濡れているようだが、

雨の後拭いている暇もなかったという様相なので、

悲壮感があり、よけい美貌が際立っていた。


双子の妹である(そして娘でもある)私が見ても、

ドキドキするほど美しい。


「美々子、大丈夫なのか?」

蘭丸が、私の前に立ち、じっと私を見た。


「もう、すっかり。丸田さんがずっとついててくれたの。」

「え?そうなの、丸田さん。」

丸田さんの方を向いた蘭丸は、

一瞬で元のアイドルふうに戻っていた(それはそれで可愛らしいから、腹が立つ)。


丸田さんは、有頂天だ。

真っ赤になっている。


丸田さんをちらっと見た川北さんは、

蘭丸に見とれながらも、笑顔を崩さないままだ。


笑顔は自分の武器だ、と知ってる人の笑顔だ、と悟った瞬間、

シラケるというより、

川北さんの演劇の才能を見抜いた部長さんにまで思いをはせた。


そういうことを蘭丸も見抜いたようだった。

丸田さんが、恥ずかし気に

「川崎さんが心配だったから付き添っただけよ。

あ、でも、保健の先生が、病院に行きなさいって言ってたわ。」

と言うと、川北さんが

「丸ちゃんは、責任感が強いから。」

と友人を持ち上げつつ、自分に注目させる。


「丸田さん、丸ちゃんって呼ばれてるんだ、可愛いね。」

と二人を公平に見る。


ふたりが真っ赤になってる間に、私の方を向いて、

「病院?」と聞いた。


「念のため、って感じ。ま、常套文句?」

私は肩をすくめようとしたが、うまくいかなかった。


蘭丸は、笑って、丸田さんと川北さんに向かい、

「本当にありがとう。美々子を連れて帰るね。」

と言い、私には真面目な顔で、

「美々子、パパがすごく心配してる。

来たがったんだけど、ぼくが止めた。」と言った。


私は心配している父のことを思うと、

すぐにでも会いたくなり、丸田さんと川北さんに、

「ごめんなさい、もう帰るわ。父さんに知らせなきゃ。

本当にありがとう。丸田さん、お世話になりました。」と頭を下げた。


「何言ってるの、友人として当たり前よ。」と丸田さんは言い、

蘭丸がいるから、友人って言ったのかなあ、

と思ってしまった私の方を、本気で心配そうに見ている。

私は少し赤くなった。


「ありがとう。」

もう一度小さい声で言った。


川北さんが、私に向って、

「こんな時に何だけど、演劇部の件、よろしく。」

と言ってから、にこっとあの笑顔で、

「お兄様も。」と蘭丸を見たが、

自分を見る蘭丸の目にくらくらしたのか、恥ずかしげに顔を伏せた。


蘭丸が二人に会釈した後、私の肩にそっと手をかけ、

彼らに背を向けて歩き出した。


廊下の角を曲がるとき、

きゃあ、どうしよう、すっごく素敵~~!

と二人の悲鳴が聞こえた。

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