第112話 時の神との対面

 夢を見ていたような気がする。

 幼き日に母に抱かれて眠る夢。甘美な余韻に浸りながら彼は目を覚ます。


「あら、マグナ。お目覚めかしら」


 注がれていた慈愛の目。思わず息を飲む美しい眼差しだった。


 リピアーは片手に本を持っていた。彼が寝静まった後はひとしきりその寝顔を眺めては擦り、夜明け前に空が白み始めた頃には読書に耽って時間を潰していたのだ。


「お早う、リピアー」

 彼女の膝に頭を預けたまま、寝ぼけまなこをこすって言う。


「お早うも何も、私はずっと起きていたのだけどね」

「そういえば、そうだったな」


 そう言って、彼は名残惜し気にリピアーの膝から頭を起こした。


「寝心地はどうだったかしら」

「悪くなかった……いや、良かったよ」

「ふふ、そう」


 満足げな微笑と鈴のような声。


「逆に俺の寝相は悪くなかったか」

「ええ、とてもお行儀が良かったわよ」

「そうか」

「ふふ、そして可愛い寝顔だったわ」


 楽しそうに笑うリピアー。マグナは恥ずかし気に顔を背けた。


 火の始末をした後、二人は果てしなき世界を歩き続ける。

 やがて遠くに古めかしい建造物の姿を見つける。ようやく辿り着いた人類の息吹だ。二人は手を取り合って静かに喜んだ。そして建築様式がより新しくなる方へと目指して進んでいく。これにもまたリピアーの知識が大いに便宜を供した。


 ――そして長き道のりの果てに、二人はついに現代への生還を果たした。


 ◇


 そこは確かにバージェス山脈の中であった。停められたマルローの自動車もある。風化している様子は無く、道中で付いていた泥汚れも新しい。おそらく山小屋に到着した直後の時間軸にちゃんと戻って来ている。


 マグナとリピアーが安堵の息をくと、彼らの到着とほとんど同時にトリエネたちが帰還を果たした(現代に至るまでの道程がどれほどの長さであったかはお互いに分からない。ただ、同じ時間軸に戻って来たので、あたかも同じタイミングで戻って来れたように錯覚したのだ)。


 トリエネはちょっぴり涙ぐむと、リピアーに駆け寄って飛び付いた。


「うわあ!良かった、リピアー!現代に戻って来れたよぉ!」

「心配していたわ、トリエネ。よく無事に戻れたわね」

「うん。マルローも色々助けてくれたから」

「あらそう。どうもありがとうね、マルロー」


 トリエネをよしよしと撫でながら、マルローに目線を向ける。

 彼はわざとらしくはにかみながら、鼻を擦った。


「へっ、いいってことよ、お義母かあさん」

「お義母さん……?」


 リピアーの表情が固まる。視線をトリエネに戻すと、彼女もまた恥ずかしそうに目を逸らすのであった。


「トリエネ、貴女……マルローと何があったの?」

「な、何っていうか、その……」

「貴女がしっかり考えた上でのことなら、私が口を挟むことではないけれども……相手は女好きのロン毛タトゥーよ?今一度よく考えてみなさい」


 取り乱した様子ではなかったが、リピアーは彼ら二人の仲が異様に縮まっているのを敏感に感じ取り、そして驚いているのだった。


 しかし仲が縮まったのは何もトリエネとマルローだけではない。


「おいおい、なんかあったのかは俺も聞きたいところだぜ。あんたとマグナ、妙に距離が近いよな?」


 彼の言葉を聞いて、初めてマグナとリピアーは、お互いの物理的距離感が以前に比べて異様に近くなっていることを自覚した。そして、そのことをまるで気にしなくなっていたことにも今更気づかされ、どこか言い訳のように申し訳程度の距離を置いた。


「いやー、リピアー、春だねー」

「へへへ、初々しいなあ」

 からかうように顔をほころばせる二人。


「やかましいわ、二人とも」

「それより、いよいよ俺たちを過去へと飛ばしてくれたレイザーとご対面だぜ」

 からかわれる二人はミサキの手を引いて、ごまかすように眼前の山小屋へと向かって行くのだった。



 その山小屋はどこか真新しかった。リピアーは違和感を覚える。


「古い建築様式ね。でも壁も屋根もまるで風化していないわ」

「やはり、時の神がいるからか?」

「おそらくそうでしょうね。みんな準備はいい?突入するわよ」


 リピアーは先陣を切って扉を開く。扉は鍵が付いておらず、簡単に開いた。

 埃臭い室内に五人はおそるおそる足を踏み入れる。中は薄暗い。ちょっとしたテーブルとイスに、簡素なダイニング、人が暮らしている割にはどこか生活感に乏しかった。


「誰もいないのか?」

「……待って、何か近づいて来るわ」


 薄暗い部屋の中で、確かに足音が近づいて来るのを感じた。生きた人間の音というよりは、金属を響かせたような無機質な音だった。


 しかし眼前に立ちはだかったソレは、確かに人の姿をしていた。フリルの付いた黒いゴシックドレスに身を包んだ、無機質な印象の女性であった。石楠花しゃくなげ色の髪をツインテールに束ねている。


「何用デショウカ?」

 声もどことなく無機質。


「いきなり訪ねて御免なさい。貴方がレイザー……ではなさそうね」

 リピアーは洞察しつつ答える。


「ゴ主人様ニゴ用デスカ。確認シマスノデ少々オ待チ下サイ」


 そう言って無機質な女性は部屋の奥へと引っ込んでいった。程なくして戻って来る。


「何者カハ知ラナイガ、話ダケハ聞イテヤルカラ来イトノコトデス」

 女性は人形の如き緩慢な動きで、奥の部屋への案内を始める。


「追い返されるかもと思ったけれど、案外素直に通してくれるのね」

「コノ山小屋ニ誰カガ訪レルノハ初メテノコトデス。ゴ主人様モ興味ヲ持ッタノカモシレマセン」


 そして奥の部屋へと通された。そこにはボサボサの琥珀色の髪色で、浅黒い肌をした男性の姿があった。服は粗末な綿服。瞳は澱んでいて、光を感じられなかった。


 その部屋はお世辞にも広いとは言えなかった。粗末なシングルベッドに小さな机と椅子、乱雑に散らばった本、机上には原稿用紙のようなものが何枚も散らばっていた。窓から差し込む仄かな陽光に、埃が光りながら舞っていた。


 男は椅子ごと体を部屋の入口の方へと向ける。

 リピアーと目が合う。


「貴方がレイザー・ラングベルクね?お初にお目にかかるわ、私はリピアー・クライナッズェ。貴方には時間を操る能力があると聞いているわ。貴方に頼みがあって来たの」


「……いかにも俺がレイザー・ラングベルクだ。せっかく誰も来れないように、周囲の時間軸をぐちゃぐちゃにしていたというのに、まさか到達する者が現れるとはな。やれやれ……面倒だがせっかくだから話ぐらいは聞いてやる」


 レイザーはひどくだるそうに喋る男であった。小屋の周囲の時間を捻じ曲げ人を寄せ付けないようにしていたくらいだ、気難しい性格であることは想定していた。しかしどのような人物か予め知り得ない以上、彼の気持ちを前向きにする算段も特になかった。


「ほら、さっさと話せ。俺は周囲の時間を限りなく停止に近い程に遅くして、マリアベルと悠久の蜜月を過ごしていたのだ。しかしそれではお前たちと会話ができないからな。分かるか?俺は時間を実に三百年ぶりに通常通りの速度に戻しているのだ。故に俺は貴重な寿命を刻一刻と減らしている。事態の深刻さを理解したら、早々に用件を話して消えろ」


 来客なぞ珍しいから相手にしているだけ、頼みを聞く気などさらさら無い。そんな風な態度であった。しかし現状、このレイザーの力に頼るしかないのだ。


 リピアーは伝える。このミサキという少女には何者かによって意思疎通不可の呪いがかけられていること。とある秘密組織が探している聖域について、ミサキが何かしらの情報を持っているであろうこと。組織を出し抜いて先に聖域に到達できなければ世界が危うい可能性すらあること。

 レイザーには、ミサキの時間を呪いがかかる前の段階までに戻してほしいのだ。


 しかしレイザーはまるで興味がなさそうに嘆息した。


「で?確かにそのミサキというガキの時間を戻してやることはできる。だが俺になんのメリットがあるというのだ?」


「……メリットというには不適切かもしれないけれど、聖域”アタナシア”を目指しているのはドゥーマという大地の力を持つ危険な神よ。そしてアタナシアにはおそらく人智を超越した何かがある。ドゥーマがアタナシアに到達してしまえば、世界全体が危険に晒されるかもしれない。それは貴方にとっても不都合なことであるはずよ」


「馬鹿馬鹿しい、大地の神がなんだというのだ。俺以上の力の持ち主など世界のどこにもいない。格下同士で勝手に争い合っていろ。せっかく俺にも益の有る話かと思い、時間の流れを戻してまで話を聞いてやったというのに。これでは寿命を無駄にしただけではないか。マリアベルと過ごす永遠が減少してしまったのだぞ!どうしてくれる!」


 マリアベルとは傍らの無機質な女性のことだろう。彼はこの女性と過ごすこと以外にはまるで興味がないようだった。


 リピアーの話には取り付く島もなく、彼女はどうしたものかと頭を抱える思いだった。

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