第95話 トリエネ・トスカーナ

 神聖ミハイル帝国の聖都ピエロービカの外れには、スヴェスタという一軒のカフェが存在する。表向きはただのカフェに過ぎないのだが、実はそこは神々の秘密組織”裏世界”のアジト入り口となっている。

 アジト自体は地下にあった。ピエロービカ地下の実に広大なエリアがアジトの領域となっており、多数の部屋とそれらを繋ぐ通路が張り巡らされている。通路は少々薄暗く、赤い絨毯が敷かれていた。


 会議室と調理室とを繋ぐ通路上に一人の女性の姿があった。

 灰褐色のコートに身を包み、ブロンドベージュの髪を後ろに流している。


 ――女性の名前はトリエネ・トスカーナ。


 裏世界のNo.5にして彼女は唯一、神の能力も特別な地位もないメンバーである。しかしその持ち前の明るさと心優しさにおいて、彼女はむしろ裏世界で誰よりも特異な存在であった。


 トリエネは何やら腕を組み、思案気に首をかしげたまま通路を行ったり来たりしている。そこにマリンブルーの髪の男が通りがかる。裏世界のNo7、アーツ・ドニエルトであった。


「……?何やってるんだ、トリエネ?」


「あ!アーツ!」


 トリエネはアーツを見つけると、軽快な足取りで駆け寄る。


 裏世界の正式メンバーはナンバーズと呼ばれるが、ナンバーズには大別すると、トリエネに友好的な者とそうではない者とに二分される。友好的でない者がいるのは、やはりトリエネが神の能力も特別な地位もないにもかかわらずナンバーズとなっているからであろう(これに関してはかつてリピアーが自身の貢献ポイントを消費して”お願い”を行使し、過半数の承認を得て受理された経緯がある)。


 アーツはクールな性格で口数こそ少ないが、なにかとトリエネに対して良くしていたところがあった。そのため彼女も、アーツには心を開いている。


「あのねあのね、今フォンダン・オ・ショコラ神とクレーム・ブリュレ神が、私の中で熱い戦いを繰り広げているの!」


「……要するに、おやつにどっちを作るか迷っているってことか?」


 突拍子のないトリエネの発言をアーツは正しく読み取った。正直いつものことなので慣れてしまっているのだ。


「もうすっごく熱い戦いでね!お互い溶けたり焦げたりしちゃってるんだから!」

「……そりゃ、フォンダンとブリュレだからな」

「アーツはどっちを勝たせてあげればいいと思う?」

「……チョコ食いたいかどうかで決めればいいんじゃねえか?」

「食べたーい!」


 アーツの助言を受けて、トリエネは愉快そうに回り始める。子供っぽいというべきか、相変わらず感情表現の大仰なやつだとアーツは思った。


「そっかぁ、チョコ食べたいかどうかで決めればよかったんだね!今日はフォンダン・オ・ショコラで決まり!ごめんねクレーム・ブリュレさん、次はあなたに花を持たせてあげるからね」


 トリエネは胸の前で両手を組んで虚空を見上げながら、なんともつかぬことを呟いていた。それすらもアーツには、いや裏世界のほとんどのメンバーには見慣れた光景だった。


 ◇


 そこからニ、三時間ほどが経過した。


 アジトの会議室には二人の老人の姿があった。一人は枯草色の髪をした瘦身の男性で、もう一人は浅黄色の逆立った髪に眼帯をした裕福そうな服装の男性。裏世界の初期メンバーであり、バズと共に”長老勢”と呼ばれる存在、ムファラドとマルクスであった。


 そこに会議室の扉が開かれ、トリエネが入って来る。

 おやつができたので、誰かいないかと確認しに来た次第であった。


「あ!おじいちゃんたちがいる!フォンダン・オ・ショコラ作ったから、一緒に食べよー♪」


「ほう」

「ありがたいね、頂くとしよう」


 二人はどこかのほほんとした、慈愛に満ちた表情で答える。


 裏世界は神々の秘密組織であり、そのことから冷酷なメンバーで構成されている組織をイメージしてしまうだろう。そして特別な能力や地位もないトリエネはやはり冷遇されているものだと、そう解釈してしまいそうになる。

 しかし裏世界の大半のメンバーはトリエネに対して実に好意的な感情を抱いていた。トリエネは物心ついた頃から裏世界におり、今に至るまでの生涯を表社会とは隔絶した場所で過ごしてきた。しかし彼女はいったい誰に似たのか、冷酷な性格になることもなければ陰気な性格になることもなく、ただひたすらに明るく優しい女性として成長した。


 彼女自身はその性格と、裏世界という居場所のソリの合わなさに随分と苦労させられてきた。しかし周囲からしてみれば、トリエネがいるからこそこの組織は残念な悪徳の集団に成り下がらずに済んでいると、そのように思っている節すらあった。彼女の底抜けの明るさが、裏世界が闇の組織と成り果てるのを防いでいるのだと、そう解釈しているのだ。

 何より、リピアーは寄る辺ないトリエネを保護した張本人であり、実質母親のような存在。リピアーからしてみれば、トリエネは娘同然の存在だった。そしてバズ、ムファラド、マルクスの長老勢はトリエネのことを、彼女がリピアーに連れられて裏世界にきたばかりの物心つかない年齢の頃から知っており、彼女の成長の過程をずっと見守って来た。彼らにしてみれば、トリエネはほとんど自分の孫娘のようなものであり、内心でかなり溺愛していた。


「やはりトリエネは良い。辛気臭い輩の多いこの組織も、アイツがいるだけで随分と空気が和らいで居心地が良くなる。まさに清涼剤のような存在だよ」

 ムファラドが和やかな目をしながら呟く。


「ハハハ、それには同意するよ。二十歳になっても言動が子供っぽいのはなんとかならないものかと、リピアーは嘆いていたけどね」

「いやいや、俺はそういうところが可愛いと思っているぞ」

 マルクスの言葉にムファラドは反論した。


 リピアーはトリエネの育ての親という立場であり、彼女からしてみれば、娘の言動がどうにも二十歳相応のものでないのは気になるところなのだろう(それについてはやはり、幼少期からずっと表社会と継続的な関わりを持ってこなかったことが関係していそうである)。


 だがトリエネのそんな愛おしく歪んでいるところを気に入っている者もおり、ムファラドはまさにそれだった。長老勢でもっともトリエネを溺愛しているのは、おそらく彼だろう。


 そうこうしている内に、再び会議室の扉が開く。トリエネが作り立てのフォンダン・オ・ショコラを乗せた皿二人分に、同じく二人分のカトラリーとティーカップにソーサー、そしてティーポット、砂糖やミルクの入った陶製の容器を載せた配膳台を押してやって来る。

 そしてムファラドとマルクスの前には、それぞれ紅茶と香ばしい香りを放つフォンダン・オ・ショコラが据えられた。


「相変わらず美味そうだな」

「そうだね、流石はトリエネだね」


 フォークでさっくりと焦げ茶色の生地を割ると、とろりと濃厚なチョコレートガナッシュが溢れ出す。まさしくフォンダンであった。まぶされたパウダーシュガーも嬉しい。傍らに添えられたベリーソースとベリーの果実も目を楽しませてくれる。

 老人二人はスイーツに舌鼓を打っている。時には不穏で剣呑な雰囲気に包まれることの多い会議室も、この時ばかりは幸せ色に満ちていた。


 トリエネは幼少期から裏世界にいる関係上、子供の時分はアジトの雑用や家事のようなことに終始していた。今ではすっかりその分野のプロフェッショナルとなっており、本人が甘いもの好きである為、とくにお菓子作りに秀でる結果となったのだ。


「ふう、美味い。昔はスイーツなぞ興味なかったが、トリエネの作る物を食べている内にすっかり虜ににされてしまった。さすがは俺の孫娘だな!」

 ムファラドは実にご満悦といった笑みを浮かべて言った。


「ハハ、ムファラドだけじゃないさ。バズだって彼女を孫娘のように思っている。無論ボクもね」

「お前は実際に娘と孫娘がいるだろう!欲張るな、マルクス!」

「おやおや、これは手厳しいね」


 ちなみに長老勢の中で、既婚者はマルクスだけである。バズとムファラドは終始独身であった。


 トリエネは配膳台の整理をしながら、老人二人の会話を背中で聞きほっこりとした幸せな気持ちになっていた。長老勢三人がトリエネを孫娘のように溺愛しているように、トリエネもまた彼らを実の祖父のように慕っていたのだった。


 そんな折、扉が勢いよく開く。

 アリーアが緊迫感の孕んだ表情で会議室へとやって来た。トリエネは彼女の様子にすぐには気づかず、いつも通りの能天気な声をかける。


「あ!アリーアだ!おやつにフォンダン・オ・ショコラ作ったんだよ!一緒に食べよう♪」


「お気持ちは有難いけれどトリエネ、”アタナシア”捜索の件、事態が大きく動き出しつつあるわ」

 緊迫感ある声で続ける。


「アヤメ・カミサキの妹、ミサキ・カミサキを確保したとリピアーから連絡があったわ。まもなくバズ、グラストと共にこのアジトに戻って来る。ドゥーマもすぐに来るでしょう。ナンバーズの参加可能なメンバーはこれより全員、当会議室への緊急招集と致します」

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