エスケープ・スピード — ゴヲスト・パレヱド異聞譚 —

夢咲蕾花

第1話 幇助

 ゴトン、と音を立ててクリスタルの灰皿が落ちた。赤い血がへばりつくそれはフローリングを数回転し、掠れ気味の命の雫の軌跡を刻んだ後でダイニングテーブルの足に当たって倒れる。

 目の前にはうつ伏せに倒れ、頭からどくどく血を流す父親。尿と大便を漏らし、末期の痙攣が終わって数分。心肺蘇生をしても決して助からないのは、言うまでもない。


 七月の半ば。僕は父さんを殺した。


 こんなはずじゃなかった、そんなつもりはなかった。そんな殺人犯の常套句は出てこない。ただ淡々と、僕は殺したくて殺したんだという実感を、強く抱いていた。

 そこには明確な殺意があったし、その動機が何と言われたら迷わず怒りと答えられる。僕は初動の興奮が収まっても、後悔やなんかは浮かんでこない。

 これで解放された、ただその安堵だけがあった。


 母が病死して二年。父は仕事を辞めて酒に入り浸り、貯えを浪費する毎日を送っていた。中学校に通う僕は周りから白い目で見られていたし、父さんは僕を進学させる金さえガメていたから、さっさと自衛隊にはいれだとか、家に金入れろとか、すぐに保険に入れとか、そんな妄言を繰り返していた。

 自分で言うのもなんだが僕は大人びているので最初は、母さんが死んで寂しいんだろうと受け流せていたが、最近はそれも無理だった。

 とにかく身勝手で傲慢な父親が、僕の人生を壊している要因だと、強く実感していたのだ。そう言う筋の知り合いに、お前を売ってもいいんだぞ。裏物のビデオは儲かるからな、なんて言われた時、僕は怒りが、その全身を支配するのを感じた。


 アナログ時計は午後十時半を示していた。

 ここからどうしよう。僕は車なんて運転できないから、山まで行って死体を埋めることなんてできない。それにここはアパートだから、庭に穴を掘るのも無理だ。

 どうしよう。父を殺したことではなく、死体の処理に困った。

 そして僕は、やはり捕まりたくないんだという卑劣な自分を自覚した。

 その時、家のドアホンが鳴った。


 心臓が、冗談抜きで一瞬止まった。静寂が耳に痛いくらい突き刺さる。

 しばらくして、もう一度鳴る。まさか警察? そんな、エスパー的なことがあるだろうかと思いながら僕は足音を殺し、恐る恐るリビングのインターホンを見た。

 そこには隣人の大賀美おおがみさんが立っていた。目も眩むほど——というタイプではなく、いつもダウナーでなんの仕事をしているかわからない、狼神おおかみという種族の妖怪の女性だ。

 裡辺、北海道、関西を除くこの関東にも妖怪は一定数暮らしているので、隣人が妖怪というケースはなくはない。珍しいのかもしれないが。


「すごい音がしたんだけど。大丈夫?」


 大賀美さんはそう言って、カメラ越しに僕を見た。その全てを見透かすかのような目が、まるでリビングの惨状まで見据えているんじゃないかと思えてしまい、僕には少し怖くなった。

 大賀美さんには、僕は憧れを持っていた。謎めいている不思議な表情が、その肉付きに乏しい不健康な体が、どうしようもなく扇情的に思えてしまうのである。


「少年、困ってるんなら、助けてあげるわよ」


 続け様にそう言った。やはり全部わかっているんだろうか。僕はズルズルと足を引き摺るようにして玄関まで歩いて行き、鍵を開ける。

 ドアを開けると大賀美さんが立っていた。夏物の寄れた黒いTシャツとジーンズという格好で、僕を見るなりうっそり微笑む。いつもそうだ。僕の顔を見た時だけ、妖艶に、そして邪悪に微笑む。


「親子喧嘩でもしちゃった?」

「……ここでは、言えないんで。入ってもらえますか」

「うん」


 僕は大賀美さんを家に上げた。念の為鍵を閉めてチェーンロックもする。待ったをいう暇もなく大賀美さんは框を上がりリビングのドアを開けた。

 倒れ伏す父さんの死体を見て、なるほどと呟いた。


「仲悪かったもんね」

「僕をヤクザに売るって……そんなこと言われたら、殺すしかないじゃないか」

。大丈夫、まずはこれを処理しましょう」


 直後、大賀美さんの上半身が大きな黒い狼になった。その巨大な狼の顎が、父さんの足から頭のてっぺんまで丸呑みにして、グシャリと噛み潰して咀嚼した。

 僕は目を見開き、あっという間に行われる究極の証拠隠滅に息を呑んだ。

 大賀美さんは三回ほど咀嚼して父さんをほとんど丸呑みにすると、床をべろりと舐めて、それからクリスタルの灰皿も食べて、父さんという存在をこの世から消し去った。

 そうして美しい女性の姿に戻って、微笑む。


「荷物をまとめようね。それから私は細工をするから。なるべく急いで」

「わ、わかった……」


 僕は部屋に戻り、普段使いもしている通学用のリュックにタブレット端末やノートPC、メモリチップなどの個人情報につながるものを入れた。それから自分の財布と父さんの財布から現金だけ抜いて、へそくりが入れてある本棚の電子回路の技法書から封筒を取り出し、リュックに突っ込む。

 これから僕らは逃げることになると、現実味を帯びている発言なのは確かだった。

 修学旅行に使うボストンバッグに着替えを突っ込み、僕は準備を終えた。

 大賀美さんもなにやら自分の部屋のキッチンで細工をしてきたらしい。すぐにうちに戻ってきて、「いこっか」と言った。


 僕らは駐車場に降りて、大賀美さんが持っている深い赤色のステーションワゴンに乗り込む。僕は助手席で、強いミントの匂いがするその車内になぜか緊張した。不謹慎だが、知らない女性と深夜に出かけるというのは本当にドキドキする。


「細工って、なにしてたんですか?」


 僕は緊張を紛らわすためにそう聞いた。


「もうじきわかるけど、それまでいたら怪しまれるから。……まずは、本州からでましょう」


 大賀美さんはエンジンをつけて、車を走らせた。

 県道に出てしばらく夜の街を走っていると、消防車の音が響いてくる。


「キッチンで火災を誘引する細工をした。木造建築だし古いアパートだから火の回りは早いと思う。私の中で修繕したお父さんの遺体を君の家に戻したし、死体は間違いなく丸焦げで見つかるわ」

「つまり、父さんは焼死として処理される?」

「そうなるわね。あなたは夜遊びの末に悪い友達の手で失踪ってことになると思う。私ですら君の家庭事情を察するくらいなんだから、事情聴取をした警察はそう処理するでしょうね」

「そんなにうまくいくかな」

「年間何万人が行方不明になると思ってるの? 大丈夫、あてがある」


 大賀美さんはそう言って、前を睨んだまま笑う。


 夏の始まりのその日、僕は密かに憧れていたお姉さんと、逃避行を始めた。

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