第8話 間一髪
「はぁ、はぁ…」
一人の少女が、後ろで一つに束ねた長いブロンドの髪を揺らしながら走っていた。
エマである。そのエマの左手には、幼女の、ツムの手が繋がれていた。オークの魔の手から一時的に逃れ、亡き父の言葉通りに、村の外れの丘に向かって駆けている。
幸いにも、あれからオークと遭遇することはなく、着々と丘は近くなっている。
「はぁ、ツム、もう少しだから、頑張って…!」
エマは、息を切らしながら、ツムを宥めるように声を掛ける。
「うん…」
ツムは、焦燥しきった様子ではあった。
暫くすると、見慣れた村人が見えた。
丘から村の様子を見ていた村人は、こちらに走ってくる二人の少女を確認するのにそう時間はかからなかった。
「エマ!ツム!」
村人とみられる男の一人が大きな声で叫ぶ。そんな男の声を聴き、エマの表情に笑顔が見られた。
「エマちゃん、ツムちゃん、無事だったんだな!よかった!」
「おじさんも無事だったんですね!」
息を切らしながらも、幾ばくかの安心感を持ってエマが答える。
「お父さんは、どうした?」
「……ッ」
エマとツムの表情を見て、男は察した。
「そうか、よくここまで来たな。とりあえず、すぐ先の丘の向こう側にみんな集まっている。オークに見つかる前に、行こう」
「……はい」
目尻に涙を浮かべながら、エマは答えた。
エマはツムの手を握ったまま、男の後ろを小走りで着いてゆく。丘というには少し貧相な、地面が少し盛り上がっただけのものでる。
だが、村から見たときには、丘の反対側は死角となり、今の状況下で身を隠すには最適であった。
しばらくすると、丘の頂上にたどり着き、丘の反対側が視界に入る。
男と姉妹の足が止まる。
声にならない呻き声が小さく上がる。
前方約10メートル先にオークがいたのだ。さらに運の悪いことに、オークの視線はこちらを向いていた。
ニチャァと、気味の悪い笑みを浮かべ、ゆっくりとエマたちの元へと近づいてくる。
恐怖で足が竦む。ペタンッと、ついに耐え切れなくなった様子でツムがしりもちをつく。
次第にその眼には涙が浮かんでいた。
「い、いや……」
「ツム、しっかりして!」
そんな妹の様子を見て、エマは片膝をつき、ツムを抱きかかえるように起そうとする。
しかし、思った以上に力が入らず、ツムを持ち上げることができない。
不思議に思ったエマだったが、理由はすぐにわかる。手も足を震え、力が入らないのだ。
父と別れてから、オークに対する恐怖の中、ツムの手を引きながら走り続けたのだ。自分の思っている以上にエマは精神的にも肉体的にも限界だったのだ。一緒になって、地面に座り込んでしまう。
「く、くそ、なんで、こんな……」
男が後ずさりしながら、苦しそうに呟く。
ふと視線が村人たちが集まっているであろう方向へ動く。
目を見開く。20名弱の村人たちが集まる丘の下、そこにもう一匹のオークがいることを確認した。更なる絶望が男を襲う。
「も、もうだめだ……おしまいだ……」
避難した村人の中には、負傷者や老人、子供が多くいた。
この丘の反対側へ移動するだけでも、苦労したのだ。
加えて、住居が立ち並ぶ村の中心部とは違い、ここは開けた平野。
いくら魔物の中では足が遅いオークとはいえ、逃げ切るのは絶望的だった。
「お、おじさん、だけでも、逃げて……」
エマは自分とツムがもう動けないことを悟り、男に声を掛ける。
「バカ言え!お前たちを見捨てられるか!」
男はエマのほうに視線を動かし、声を荒げた。
「で、でも、私たちはもう……ぁ」
言葉は紡ぐことなく、そのまま小さく、エマは息を漏らした。
オークが3人の目の前まで迫っていた。
「ニンゲン、マダイタ、クウッ!」
口の端から涎をダラダラと垂れ流し、更に迫る。
男は恐怖で声すら出ない。
少しずつ後ずさりし、エマとツムが座り込んでいる位置まで後退する。
走って逃げればまだ、逃げられるかもしれない。そんな思いとは裏腹に、足はまるで凍ったように動かない。
オークの腕が3人へとのびる。
エマはツムを抱き、目を力いっぱい瞑った。
大粒の涙がいくつも流れ出る。
「助けて!誰か助けて!」
心の中で力いっぱい叫んだ。数秒後に来る恐怖と激痛に身体を震わせる。
だが、数秒後に襲ってきたのは、痛みではなく、声だった。
ウガァァッというオークの苦しそうな雄叫び。
一体何が起きているのか確かめるべく、少しずつ目を開く。
目の前に、ひらひらと舞う黒いものがあった。
視線を下へと落とすと、そこには先ほどまで自分たちに襲い掛かろうとしていたオークの腕が転がっていた。
「え……?」
何が起こっているのか、理解できなかったエマは、息を漏らすように声を発した。
「何とか間に合った」
黒い何かが言葉を発した。
この時、初めて目の前の黒が人であることにエマは気付いた。
と同時に、声色から男性であることも伺えた。
恐る恐る目を開き、その視線を上へと移す。
どうやらその黒はマントのようであった。
黒いマントが翻る。
「もう大丈夫だよ、よく頑張ったね」
一瞬見えた男の微笑と、寄り添うような優しい声が、心に染み渡るような感覚を覚えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます