森の傷痕(後編)
シルギエラは驚かなかった。顔から表情を消して、タウィンを見返している。
「俺のことを男として見られないなら、そう言ってくれ。言ってくれれば、諦める」
そして、今まで通りの関係でいよう──それがいかに苦しいか、十分理解した上でタウィンは誓った。すぐ側に清らかなオアシスがありながら、一滴も飲めない砂漠の
ざわざわ、森の木々が意外な展開にどよめいている。どくん、どくん、
「──想像もしなかった」
「え?」
「森で迷って泣いていた、小さな男の子を助けたら──たった十年で、こんなに
その瞬間、
タウィンは
だから、あの時シルギエラがしてくれたように、今度はタウィンが彼女を抱き締めようとしたのに。
「駄目よ、私のタウィン」
シルギエラはタウィンの腕からするりと逃げてしまう。彼女の顔に落ちる森の影が、その表情を覆い隠す。
「あの伝説は知っているでしょう? 人間とエルフは決して結ばれない──いいえ、結ばれてはいけないのよ」
*
リューンヘイム王国の民なら、その伝説は誰もが知っている──。
それは建国の発端となった、シエト帝国の侵攻よりさらに以前──人々が神々の
人間とエルフの間に、一人の混血児が生まれた。
混血児は両親の特質を半々に受け継ぎ、中途半端に尖った耳を備えていた。その耳の
セリヴェルド史上三人目の魔王、〈
ネモヘレドは〈魔地竜〉バラグラダを封印から解き放った。神々の世界創造を手伝った八聖魔竜の一体であり、〈創世時代〉の終わりに〈聖地竜〉タラエントとお互いに封印し合った──要するに、神々に次ぐ存在である。メーヴェルドから授かった死の杖メーヴェルザーが、その制御を可能にしたのである。
バラグラダはセリヴェルド中の地下を駆け巡り、
幾多の国々が滅びていく様を、ネモヘレドは魔王城の遠見鏡で見物したという。宴を
そして、ネモヘレドは最後の仕上げとばかりに、バラグラダを〈
決死の覚悟で立ちはだかるエルフたちの前に、バラグラダがその
次々と食われていくエルフたちの姿を、ネモヘレドはいつものように魔王城で見物していたが、そこに思わぬ
〈森の勇者〉エルサナス──彼は後世にそう呼ばれることになる。
その出自は判明していない。ネモヘレドに滅ぼされた国の王子だったとも、一介の騎士に過ぎなかったとも言われている。
いずれにせよ、エルサナスがエルフの女王グウェンドリンと深く愛し合っていたことは確かだ。彼は恋人とリューン大森林を救うべく、セリアーザより黄金の剣──聖剣セリアーダムを授かり、勇者になったのだ。
ネモヘレドは大地に地獣ヤマユラシの名を与える精霊術で、エルサナスを丸呑みさせようとした。しかし、
こうして、セリヴェルドに平和が戻った。生き残った者たちは、皆がエルサナスを
恋人グウェンドリンと二度と会わないという誓いが、エルサナスが選んだ代償だったのだ。
この誓いには、もう一つの狙いもあった。エルサナスは『人間とエルフは結ばれない』いう前例を
エルサナスは律儀に聖剣との誓いを守ったのか? 否、何とかグウェンドリンに一目会おうと、あの手この手で
結局、エルサナスがグウェンドリンと再会したのは、彼が天寿を全うした後だった。グウェンドリンは恋人の
*
その伝説をタウィンに話してくれた村の古老は、こう結んだ。
故に、人間とエルフは結ばれてはならぬのだ。もし混血児が再誕すれば、必ずや第二のネモヘレドと化すであろう。
人間とエルフの結びつきは、″不可能″かつ″
「そんなの迷信だ」
初めて聞いた時と同じ結論を、タウィンは改めてシルギエラに告げた。
「もう一度混血児が生まれても、差別しなけりゃ済む話じゃないか。俺たちは同じ
そんな奴がいたら、【
「そうは言ってないわ。人間もエルフも確実に前に進んでいる、少なくともエルサナスの時代よりは──でも」
シルギエラの声に怯えが混じる。人食いのオーガーを目前にしても、平然としていた彼女が。
「──
花言葉が矢を通して具現化するように、名前で自然現象が自我に目覚めるように──。
セリヴェルドは言葉が力を持つ世界である。それは物質の領域である
そんな物質界と真智界を橋渡しするものこそが、言葉だ。
通常は、
その条件を満たす言葉の一つが、伝説だ。
伝説は真智界に言霊の情報構造体──伝説構造を形成する。そして、一度形成された伝説構造は、時代を越えて物質界に投影され続ける。舞台を、配役を変えつつも、
伝説構造はセリヴェルドの礎なのか、それとも呪縛なのか──それはタウィンにも解らないが。
(例えば、俺とシルギィの間に混血児が生まれたら──)
人間は、エルフは、どう考え、どう行動するだろう?
タウィンと同じように、過ちを繰り返すまいと考える者も多いだろう。一方、理性ではそうするべきだと解っていても、伝説構造がネモヘレドを再誕させることを恐れて、災いの芽を事前に
それどころか、自分とシルギエラの仲を知ったら、こんな風にさえ考えるかもしれない──混血児を産む前に始末してしまえ、と。
「分かるでしょう? 私たちの恋を知ったら、多くの人間やエルフが敵に回るわ」
「そうかもしれない。でも、少なくとも、女王様は俺たちの味方のはずだ」
シルギエラがはっと顔を上げる。彼女が母のように
「過去は繰り返される、女王様もそう思い込んでいるなら、人間と一切関ろうとしないはずじゃないか。どうして森番なんて
森番を制定したのは彼女である。当初は戸惑いの声も多かったらしい。人間側からもエルフ側からも。エルフだけでは手が足りない、人間たちにも森を知って欲しい──表向きはそれらが制定の理由だったが、真の理由は別にあったのではないか。
「過去を乗り越えて、人間とエルフが対等に付き合える──そんな王国を目指して、女王様は森番制度を始めた。俺はそう思う」
リルハインはシエト帝国の〈魔皇帝〉ケイゼリオスを倒した〈
それが事実だったとしても、二人が結ばれることはなかった。歴史が記す通り、アヴァロクはルザリア王女と結婚し、アヴァロキア聖王国の建国王になった。
リルハイン自身は諦められても、他の誰かにまで諦めさせたくはなかったのかもしれない。
「エルサナスとグウェンドリンだって、その方が喜ぶんじゃないかな。ネモヘレドだって、少しは救われると思うぜ」
「タウィン──」
タウィンはシルギエラに一歩だけ近付く。彼女は──今度は逃げなかった。タウィンからも、自分からも。
「だとしても、どうすれば皆を変えられるのかしら」
「そりゃあ、決まってるさ」
タウィンは白い歯を見せて笑う、愉快な
「俺とシルギィが活躍すればいいんだ。伝説さえ上書きしちまうぐらいにな!」
「それは──出来るとしても、長い時間が必要になるわ。あなたの、み──貴重な時間を」
短いという言葉を、シルギエラは
「そんなことに浪費させていいの?」
「そんなこと、なんて言うな。俺にとっては一生を捧げる価値がある」
タウィンは矢筒から一本の矢を取り出し、シルギエラに差し出した。それは
「ニリンギクの花言葉を知っているか?」
「ええ──″決して離れない″」
シルギエラはそっとニリンギクの矢を受け取り──思わず吹き出した。
「わざわざ用意してたの?」
「た、
赤面するタウィンを、シルギエラは
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