凍れる恋の迷宮

 床も、壁も、天井も、そこから吊り下げられた豪奢ごうしゃなシャンデリアまで──全てが永遠に溶けない氷で造られた謁見えっけんの間にて。


 雪の結晶をかたどった氷の玉座に、世にも美しい女が腰掛けている。


 新雪のように白い肌。優美な曲線を描くあご鼻梁びりょう。細い眉の下の双眸そうぼうは切れ長の氷青色アイスブルー


 人心を魅了するたぐいの美しさではない。そのあまりの完璧さに、相対する者はおのれの不完全さを容赦なく突き付けられる──磨き抜かれた鏡にも例えるべき、無慈悲な美しさ。


 短く刈った白銀の髪に氷の額冠サークレットを飾り、細身ながら引き締まった体躯たいくを氷の鎧に包んでいる。その背から生えた風獣チスイバネのような皮膜の翼が、彼女が悪魔であることを示していた。


 闇の聖典が記すその名はグレイシアス。万魔宮パンデモニウムの地下439階層、〈氷魔の階層〉を支配する貴族級悪魔である。同界の悪魔たちで構成される〈氷魔騎士団〉の団長でもある。


「────」


 グレイシアスは無表情に虚空を見つめている──否、わずかにその瞳を揺らがせるものがある。苛立ち、あるいは──期待?


「準備が整いましてございます、グレイシアス様」


 氷の扉の向こうから、青年らしき声がうやうやしく告げる。しかし、応えるグレイシアスの声からは、一切の感情が除去済みだった。


「ご苦労──始めよ」


 氷の扉が爆発するように開き、白銀の毛皮の大猿が躍り込む。無論、万魔宮にただの猿が棲息している訳がない。そいつの背中からは、グレイシアスのものと似た皮膜の翼が生えている。配下の家畜級悪魔であろう。悪魔としては最下級だが、その拳は岩のごとき堅牢さだ。


 大猿悪魔は咆哮ほうこうを上げながら、グレイシアス目掛けて突進する。上位者には絶対服従のはずの悪魔が、如何いかなる乱心か──見れば、大猿悪魔の首筋に氷の針が深々と刺さっている。それが本能の一部を凍らせ、封じているのだ。


 グレイシアスは玉座に腰掛けたまま、形の良い唇をすぼめてフッと呼気を吹く。幼子がカンムリソウの綿帽子でも吹き散らすような、そんな仕草でしかなかったのに。


 その呼気は凄まじい吹雪と化して、大猿悪魔を包み込んだ。数秒で氷の彫像に変えてしまう。


 そこでようやく、グレイシアスは氷の玉座から立ち上がる。氷の長靴をカツカツと響かせながら、凍結した大猿悪魔に近付き──。


 ぴたりと歩みを止める。


「ガアアァッ!」


 大猿悪魔が凍結の呪縛を破り、再びグレイシアスに襲い掛かる。しかし、彼女は眉一つ動かさない。氷の手甲ガントレットに覆われた手をかかげると、冷気がこごって氷の長剣へ結晶する。


 ひゅおぅっ──微風そよかぜのように軽い、グレイシアスの一振りはそうとしか見えなかったが。


 大猿悪魔が脳天から股間まで両断され、そのむくろが左右に倒れる。黒い砂と化して散っていく大猿悪魔に、グレイシアスは視線も向けない。


「お見事でございます、グレイシアス様」


 一礼しつつ謁見の間に入ってきた青年もまた、その背から皮膜の翼を生やしていた。端正ながら際立った特徴のない容姿は、執事級悪魔によく見られるものだ。服装は白を基調にした燕尾服テイルコートだが、あちこちから氷の針を生やしている。大猿悪魔に刺さっていた物はこれだろう。


世辞せじはよせ、ベルザード」


 グレイシアスはしかし、氷魔の階層の次席である彼にすら視線を向けない。虚空を通して、遠い何処どこか──あるいは何時いつかだけを見つめている。


「全盛期の我であれば、丸一日は氷漬けだった──」


 氷面に亀裂が走るように、グレイシアスの無表情が崩れていく。眉間みけんにしわを寄せ、牙をき出し、がっと己の胸をつかむ──そこから何かをえぐり出そうとしているかのように。


 そんな主を、ベルザードは痛ましげに見つめている。


忌々いまいましい──あの人間にさえ出会わなければ──!」


 *


 およそ二百年前──。


〈魔皇帝〉ケイゼリオス率いるシエト帝国が、セリヴェルドに覇を唱えた。所謂いわゆる黎明れいめい大戦〉である。グレイシアスを含む多くの悪魔たちが、侵略の尖兵としてケイゼリオスに召喚された。


 グレイシアスに与えられた任は、リューン大森林に住むエルフたちの排除だった。優れた魔術士集団である彼らは、帝国にとって脅威になり兼ねなかったからである。実際、〈朽木の魔王〉ネモヘレドが〈森の勇者〉エルサナスに敗北したのは、エルフたちが勇者に加勢したことが一因と言われている。


 グレイシアスは大森林を吹雪で覆い、その中心に生える〈始原樹ユグドラシル〉を枯らそうとした。樹高三百メトを越えるかの大樹こそ、全ての緑類しょくぶつの始祖であり、今も真智界アエティールを通して繋がっている。これを枯らせば、セリヴェルド全土──とまではいかずとも、大森林の緑類は道連れになる。緑類を力の源とするエルフの魔術も、大幅に弱体化するだろう。


 そして、一ヶ月後──。


 無間の吹雪に見舞われた大森林は、枯れ木ばかりの死の世界と化した。だが、始原樹は弱まりこそすれ、一向に枯れる様子はない。エルフたちが何らかの手段で抵抗しているらしい。始原樹さえ無事であれば、エルフたちは何度でも大森林を復活させることが出来る。


 業を煮やしたグレイシアスは、自ら始原樹を切り倒さんと大森林に乗り込んだ。十分可能なはずだった。彼女の氷の魔剣であれば、始原樹が弱まっている今であれば。


 エルフたちの相手は氷魔騎士団に任せ、グレイシアスとベルザードは真っ直ぐに始原樹を目指した。だが、彼女たちの前に立ちふさがったのは、意外な相手だった。


『なぜこんな所に人間どもが──?』


 後にケイゼリオスを倒し〈黎明の五勇者〉と呼ばれることになる者たちである。


 エルフたちを味方に付けるべく、始原樹の防衛戦にせ参じたのだ──とは、グレイシアスには預かり知らぬ事情であったし、知ったところで興味も沸くまい。ゴミでも吹き散らすかのように、五勇者に絶対零度の吐息を浴びせた。


 だが──。


『何だと!?』


 ベルザードが驚愕する──グレイシアス自身はわずかに眉を上げた程度だったが。五勇者は『冷てえぇぇっ!?』等と悲鳴を上げ、間抜けづらから氷柱つららをぶら下げつつ、その程度で耐えている。


 真智界を覗いたグレイシアスは、即座にその絡繰からくりを見破った。五勇者の足元に″木″の言霊ことだまから成る、概念の花々が咲き乱れている。真智界の季節を春と偽ることで、物質界プレーンの気温をも制御しているのだ。よく見れば、魔術士らしい奴も混じっている──後の〈黒の大魔術士〉ザーハルである──。


(ほう、人間にもこれ程の使い手がおるのか)


 闇の神メーヴェルドに創造されて以来、グレイシアスは初めて人間に興味を抱いた。ベルザードに手出しを禁じ、氷の魔剣を具現化させる。皮膜の翼もたたんだまま、あえて地上で受けて立つことにした。


 執事は何か言いたそうだったが、結局は沈黙で応えた。


 五勇者は戦士としても人間離れしていた。氷の魔剣の刀身を十数メトに伸ばし、むちのようにくねらせ、果ては七本に分裂させて遠隔操作しても、必死であらがい続けた。だが、所詮しょせんは人間。一人二人と倒れていき──最後まで立っていたのは、一行の統率者リーダーらしき若者だった。


 白銀の鎧に身を包み、片手半剣バスタードソードを構えている。何処いずこかの国の騎士であろうか──メーヴェルドの騎士たるグレイシアスにとっては、人間の騎士など猿真似に過ぎないのだが──。黒髪を凍結させながらも、カッと空色の双眸を見開いている。


(なかなか良い面構えではないか、人間にしては)


 ベルザードの針で反抗心を凍らせて、氷刃の階層に連れ帰るのもいいかもしれない。剣の鍛錬たんれん相手兼、愛玩獣ペットとして飼ってやろう。何なら、数百年ぐらい寿命を伸ばしてやってもいい。


(我がこれ程までに、人間に興味を覚えるとは──)


 グレイシアス自身が己の変化にやや戸惑っていた、その時。


『────』


 騎士がぼそりと呟いた。


『──は?』


 理解するまで、グレイシアスは一瞬を要した。そいつは氷魔の階層の主、死せる雪原の女王、冷血なる征服者に対して、こう言ったのである──恍惚こうこつとした顔で。


 美しい、と。


『皇帝のやつ、こんな美人悪魔を召喚しやがって! ああ、何てうらやしからん!』

『だぁーっ、悪魔にまで発情するな、このスケコマ騎士!』


 挙句の果てには、子供のように地団駄を踏み始め、手火砲ピストーラ使いの仲間──後の〈青の大海賊〉ジャンピーノである──に罵倒ばとうされている始末。


(こやつら、何を言って──)


『グレイシアス様、あれを!』


 ベルザードに指摘されて、グレイシアスはようやく始原樹の異変に気付いた──自分が普段の冷静さを欠いていることには、未だに気付いていないが。


 始原樹がざわざわと身震いし──見よ! 地響きを立てながら、徐々に持ち上がっていくではないか。絡み合う根の下から現れたのは、岩の身体を水晶のうろこで覆った巨龍であった。始原樹はその背中から生えていたのだ。


「間に合った! エルフたちがタラエントを起こしたんだ!」


 魔術士が喝采かっさいを上げる。〈聖地龍〉タラエント──神々の創世を手助けした、八聖魔龍の一体である。


 始原樹が枯れずにいたのは、タラエントが″命″の言霊を分け与えていたからだろう。縦長の虹彩を持つ深緑色エメラルドの目が、グレイシアスをじろりと睨む。始原樹を守っていた理由は不明だが、それを枯らそうとした彼女に好意を持つはずもない。


(ちっ、時間稼ぎか)


 神々に次ぐ存在を目前にしても、グレイシアスはひるまない。邪魔立てするなら、諸共もろともに切り捨てるまで。氷の魔剣を長さ数百メトまで伸ばして、始原樹の幹へ振り下ろそうとするが。


『な──!?』


 今度はベルザードのみならず、グレイシアス自身も驚愕させられた。炎熱にさらされたあめ細工の如く、氷の魔剣がぐにゃぐにゃと溶解してしまったのだ。しかも、大森林を包む吹雪まで弱まり始める。


(何だ、この感覚は?)


 顔が熱い。胸奥で何かがどくどくと脈打っている。あの騎士の顔から目が離せない。グレイシアスの魂──貴族級悪魔の誇り、他種族への軽蔑が連綿とつづられた書物に、突如割り込んできた一文。


(我はあの騎士が──)


 前後と文脈がまるで繋がらないそれが、グレイシアスを根本から揺さぶり、氷の魔剣や吹雪の制御まで乱している。解っているのに、自分を抑えられない。


「グレイシアス様、ここは退却を!」


 ベルザードの進言を彼女が受け容れたのは、五勇者たちのこんなやり取りが聞こえてきたからである。


「お、おい、あの女悪魔、めっちゃ動揺してるぞ?」

「タラエントにビビッて──いるんだよな?」

「もちろん、俺の魅力にビビッていらっしゃるのさ! ああっ、待って悪魔のお嬢さん! せめて、君の召喚の仕方を教えて──」


 仲間たちにため息を吐かれているその男こそ、後の〈白の聖騎士〉──黎明の五勇者の統率者、聖剣セリアーダムに選ばれし者、アヴァロキア聖王国の建国王、アヴァロク・ローフェルその人であった。


 *


 それ以来、グレイシアスは完全な力が振るえなくなってしまった。


 ″火″の言霊を排除して気温を下げる度に、″水″の言霊を凝縮して氷雪を呼ぶ度に──彼女の魂に居座るアヴァロクの記憶が、記憶に伴う謎の熱が邪魔をする。


 その感情を人間どもが何と呼んでいるのか──グレイシアスに教えたのは、寄りにも寄って犬猿の仲の貴族級悪魔ミュアレ──万魔宮の地下438階層、〈虚飾の階層〉の主──だった。


『泣く子も黙るグレイシアス様が、まさか恋なんてねぇ~。し・か・も、人間のオス風情に! きゃははは──』


 無論、そんな自分をグレイシアスが認められるはずもない。だからと言って、自分を誤魔化すなど尚更なおさら許せない。悩んだ挙句、彼女が見出した解決手段。それは証明することだった。


 即ち、恋など人間どもの幻想に過ぎないと。


『ど、何処だ、ここは!? 俺はコレットとデートしてたはずじゃ──』

『アラン!? どこにいるの、アラン──』


 堅い絆で結ばれた恋人同士──と自称する人間のつがいを配下に拉致らちさせ、氷魔の階層の一画に監禁する。グレイシアスはそんな″実験″を繰り返すようになった。


 万魔宮はセリヴェルドの南極に位置する。本来であれば人間の居住地との往来は困難なのだが、グレイシアスはケイゼリオスが用いた召喚の魔法陣を利用した。彼女がエルフの排除という任を未だ果たしていない為、魔法陣が機能し続けていたのだ。犠牲者の恋人たちにとっては不運なことに。


 実験区画には様々な仕掛けが施されており、恋人たちの絆を試してくる。浮気の場面を映し出す鏡、陰口を再現する自動楽器、助かりたければ恋人を見捨てろと迫る魔動像ゴーレム


 配下の悪魔たちも総動員である。大金持ちかつ献身的な美男美女に化け、自分に乗り換えろと恋人たちを誘惑する。


 そして──。


『この裏切り者め!』

『何よ、あんたこそ!』


 恋人たちは無残な破局を迎える。かくて、グレイシアスは新たな異名を得た──〈恋人たちの宿敵〉。


 黎明大戦が終結し、アヴァロクが天寿を全うした後も実験は続いたが、結果は毎回同じだった。それにも関わらず、グレイシアスの恋の呪いは未だに解けない。


 口汚くののしり合う元恋人たちを、そら見たことかと冷ややかにわらい、恋など幻想だと自分に言い聞かせようとする度に。


(我は違う、あの男は違う──)


 自分で自分を否定してしまう。アヴァロクの面影は一向に消えない。あの空色の双眸を思い出すだけで、不快な熱がよみがえってしまう。


「ええい、あのような半端者どもでは駄目だ! もっと、もっと強い番を連れてくるのだ!」


 グレイシアスは気付いていない。恋を否定したいのか、本当は信じたいのか、最早分からなくなっている自分に。


「必ずや、グレイシアス様──」


 グレイシアスは気付いていない。眼前でひざまづくベルザードの顔が、何かに耐えるように歪んでいることに。


 嫉妬──人間どもがこの感情をそう呼んでいると、実験を通して彼もまた知ってしまったのである。


 凍れる恋の迷宮に、未だ出口は見えない。

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