凍れる恋の迷宮
床も、壁も、天井も、そこから吊り下げられた
雪の結晶を
新雪のように白い肌。優美な曲線を描く
人心を魅了する
短く刈った白銀の髪に氷の
闇の聖典が記すその名はグレイシアス。
「────」
グレイシアスは無表情に虚空を見つめている──否、
「準備が整いましてございます、グレイシアス様」
氷の扉の向こうから、青年らしき声が
「ご苦労──始めよ」
氷の扉が爆発するように開き、白銀の毛皮の大猿が躍り込む。無論、万魔宮にただの猿が棲息している訳がない。そいつの背中からは、グレイシアスのものと似た皮膜の翼が生えている。配下の家畜級悪魔であろう。悪魔としては最下級だが、その拳は岩の
大猿悪魔は
グレイシアスは玉座に腰掛けたまま、形の良い唇をすぼめてフッと呼気を吹く。幼子がカンムリソウの綿帽子でも吹き散らすような、そんな仕草でしかなかったのに。
その呼気は凄まじい吹雪と化して、大猿悪魔を包み込んだ。数秒で氷の彫像に変えてしまう。
そこでようやく、グレイシアスは氷の玉座から立ち上がる。氷の長靴をカツカツと響かせながら、凍結した大猿悪魔に近付き──。
ぴたりと歩みを止める。
「ガアアァッ!」
大猿悪魔が凍結の呪縛を破り、再びグレイシアスに襲い掛かる。しかし、彼女は眉一つ動かさない。氷の
ひゅおぅっ──
大猿悪魔が脳天から股間まで両断され、その
「お見事でございます、グレイシアス様」
一礼しつつ謁見の間に入ってきた青年もまた、その背から皮膜の翼を生やしていた。端正ながら際立った特徴のない容姿は、執事級悪魔によく見られるものだ。服装は白を基調にした
「
グレイシアスはしかし、氷魔の階層の次席である彼にすら視線を向けない。虚空を通して、遠い
「全盛期の我であれば、丸一日は氷漬けだった──」
氷面に亀裂が走るように、グレイシアスの無表情が崩れていく。
そんな主を、ベルザードは痛ましげに見つめている。
「
*
およそ二百年前──。
〈魔皇帝〉ケイゼリオス率いるシエト帝国が、セリヴェルドに覇を唱えた。
グレイシアスに与えられた任は、リューン大森林に住むエルフたちの排除だった。優れた魔術士集団である彼らは、帝国にとって脅威になり兼ねなかったからである。実際、〈朽木の魔王〉ネモヘレドが〈森の勇者〉エルサナスに敗北したのは、エルフたちが勇者に加勢したことが一因と言われている。
グレイシアスは大森林を吹雪で覆い、その中心に生える〈
そして、一ヶ月後──。
無間の吹雪に見舞われた大森林は、枯れ木ばかりの死の世界と化した。だが、始原樹は弱まりこそすれ、一向に枯れる様子はない。エルフたちが何らかの手段で抵抗しているらしい。始原樹さえ無事であれば、エルフたちは何度でも大森林を復活させることが出来る。
業を煮やしたグレイシアスは、自ら始原樹を切り倒さんと大森林に乗り込んだ。十分可能なはずだった。彼女の氷の魔剣であれば、始原樹が弱まっている今であれば。
エルフたちの相手は氷魔騎士団に任せ、グレイシアスとベルザードは真っ直ぐに始原樹を目指した。だが、彼女たちの前に立ち
『なぜこんな所に人間どもが──?』
後にケイゼリオスを倒し〈黎明の五勇者〉と呼ばれることになる者たちである。
エルフたちを味方に付けるべく、始原樹の防衛戦に
だが──。
『何だと!?』
ベルザードが驚愕する──グレイシアス自身は
真智界を覗いたグレイシアスは、即座にその
(ほう、人間にもこれ程の使い手がおるのか)
闇の神メーヴェルドに創造されて以来、グレイシアスは初めて人間に興味を抱いた。ベルザードに手出しを禁じ、氷の魔剣を具現化させる。皮膜の翼も
執事は何か言いたそうだったが、結局は沈黙で応えた。
五勇者は戦士としても人間離れしていた。氷の魔剣の刀身を十数メトに伸ばし、
白銀の鎧に身を包み、
(なかなか良い面構えではないか、人間にしては)
ベルザードの針で反抗心を凍らせて、氷刃の階層に連れ帰るのもいいかもしれない。剣の
(我がこれ程までに、人間に興味を覚えるとは──)
グレイシアス自身が己の変化にやや戸惑っていた、その時。
『────』
騎士がぼそりと呟いた。
『──は?』
理解するまで、グレイシアスは一瞬を要した。そいつは氷魔の階層の主、死せる雪原の女王、冷血なる征服者に対して、こう言ったのである──
美しい、と。
『皇帝のやつ、こんな美人悪魔を召喚しやがって! ああ、何て
『だぁーっ、悪魔にまで発情するな、このスケコマ騎士!』
挙句の果てには、子供のように地団駄を踏み始め、
(こやつら、何を言って──)
『グレイシアス様、あれを!』
ベルザードに指摘されて、グレイシアスはようやく始原樹の異変に気付いた──自分が普段の冷静さを欠いていることには、未だに気付いていないが。
始原樹がざわざわと身震いし──見よ! 地響きを立てながら、徐々に持ち上がっていくではないか。絡み合う根の下から現れたのは、岩の身体を水晶の
「間に合った! エルフたちがタラエントを起こしたんだ!」
魔術士が
始原樹が枯れずにいたのは、タラエントが″命″の言霊を分け与えていたからだろう。縦長の虹彩を持つ
(ちっ、時間稼ぎか)
神々に次ぐ存在を目前にしても、グレイシアスは
『な──!?』
今度はベルザードのみならず、グレイシアス自身も驚愕させられた。炎熱に
(何だ、この感覚は?)
顔が熱い。胸奥で何かがどくどくと脈打っている。あの騎士の顔から目が離せない。グレイシアスの魂──貴族級悪魔の誇り、他種族への軽蔑が連綿と
(我はあの騎士が──)
前後と文脈がまるで繋がらないそれが、グレイシアスを根本から揺さぶり、氷の魔剣や吹雪の制御まで乱している。解っているのに、自分を抑えられない。
「グレイシアス様、ここは退却を!」
ベルザードの進言を彼女が受け容れたのは、五勇者たちのこんなやり取りが聞こえてきたからである。
「お、おい、あの女悪魔、めっちゃ動揺してるぞ?」
「タラエントにビビッて──いるんだよな?」
「もちろん、俺の魅力にビビッていらっしゃるのさ! ああっ、待って悪魔のお嬢さん! せめて、君の召喚の仕方を教えて──」
仲間たちにため息を吐かれているその男こそ、後の〈白の聖騎士〉──黎明の五勇者の統率者、聖剣セリアーダムに選ばれし者、アヴァロキア聖王国の建国王、アヴァロク・ローフェルその人であった。
*
それ以来、グレイシアスは完全な力が振るえなくなってしまった。
″火″の言霊を排除して気温を下げる度に、″水″の言霊を凝縮して氷雪を呼ぶ度に──彼女の魂に居座るアヴァロクの記憶が、記憶に伴う謎の熱が邪魔をする。
その感情を人間どもが何と呼んでいるのか──グレイシアスに教えたのは、寄りにも寄って犬猿の仲の貴族級悪魔ミュアレ──万魔宮の地下438階層、〈虚飾の階層〉の主──だった。
『泣く子も黙るグレイシアス様が、まさか恋なんてねぇ~。し・か・も、人間のオス風情に! きゃははは──』
無論、そんな自分をグレイシアスが認められるはずもない。だからと言って、自分を誤魔化すなど
即ち、恋など人間どもの幻想に過ぎないと。
『ど、何処だ、ここは!? 俺はコレットとデートしてたはずじゃ──』
『アラン!? どこにいるの、アラン──』
堅い絆で結ばれた恋人同士──と自称する人間の
万魔宮はセリヴェルドの南極に位置する。本来であれば人間の居住地との往来は困難なのだが、グレイシアスはケイゼリオスが用いた召喚の魔法陣を利用した。彼女がエルフの排除という任を未だ果たしていない為、魔法陣が機能し続けていたのだ。犠牲者の恋人たちにとっては不運なことに。
実験区画には様々な仕掛けが施されており、恋人たちの絆を試してくる。浮気の場面を映し出す鏡、陰口を再現する自動楽器、助かりたければ恋人を見捨てろと迫る
配下の悪魔たちも総動員である。大金持ちかつ献身的な美男美女に化け、自分に乗り換えろと恋人たちを誘惑する。
そして──。
『この裏切り者め!』
『何よ、あんたこそ!』
恋人たちは無残な破局を迎える。かくて、グレイシアスは新たな異名を得た──〈恋人たちの宿敵〉。
黎明大戦が終結し、アヴァロクが天寿を全うした後も実験は続いたが、結果は毎回同じだった。それにも関わらず、グレイシアスの恋の呪いは未だに解けない。
口汚く
(我は違う、あの男は違う──)
自分で自分を否定してしまう。アヴァロクの面影は一向に消えない。あの空色の双眸を思い出すだけで、不快な熱が
「ええい、あのような半端者どもでは駄目だ! もっと、もっと強い番を連れてくるのだ!」
グレイシアスは気付いていない。恋を否定したいのか、本当は信じたいのか、最早分からなくなっている自分に。
「必ずや、グレイシアス様──」
グレイシアスは気付いていない。眼前で
嫉妬──人間どもがこの感情をそう呼んでいると、実験を通して彼もまた知ってしまったのである。
凍れる恋の迷宮に、未だ出口は見えない。
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