オアシスの貝珠

 フダラク山国連邦の大動脈、スガノ河の景観はまさに水墨画のようだった。

 

 山肌をすべり降りてきた霧が川面をただよい、両岸には柱のような奇岩が立ち並んでいる。山間に見えるいおりに住まうは、何処いずこの隠者であろうか。

 

 そんなび──フダラクの民独自の美意識──の世界に似合わぬ派手な船が、スガノ河を悠然ゆうぜんと下っていく。


 フダラク山に住まう〈聖火竜〉フレズニルをかたどった黄金の船首像、朱塗り屋根の屋形やかたは宮殿と見紛みまごうばかりの豪華さ、甲板かんぱん上では警備の刀兵たちが睨みを効かせている。


 フダラク山長家の御用船〈火竜丸〉だ。通りすがりの河漁師が、船側にかかげられた山長旗に深々と一礼する。

 

 屋形最奥の貴賓室きひんしつに座するは、十八になったばかりのヤスナ姫である。フダラク山脈を描いた金屏風びょうぶに取り囲まれ、一人では歩けないぐらい豪華な花嫁衣裳に身を包みながら、その眼差まなざしは沈みがちであった。


(市場に運ばれていく魚は、このような気分であろうか)


 今日、ヤスナはダキニ山長家に嫁入りする。婿とは顔を合わせたこともない──山長家同士の婚約において、相手の容貌など問題にならない。否、すべきではないからだ。


 ダキニ山国はかつてフダラク山国の属山であったが、二百年前のシエト帝国の侵攻に乗じて独立したという経緯がある。そのため、両国の関係は良好とは言いがたい。山国連邦のかなめである両国を結び付けるために、この結婚はが非でも必要だと──それはヤスナも理解している。


 生まれた時から決まっていたことだ。嫌だと口にしたことなど一度もない。


 それでも──それでも。


 ヤスナはそっとおのれの右耳に触れる。そこに揺れる耳飾りには、世にも珍しい青い貝珠がはめ込まれている。


(お姉様、お元気だろうか)


 この耳飾りは父長があえて片方ずつ、ヤスナと双子の姉ツクナ姫に授けたものだ。娘たちが常に一心同体でいられるように、という願いを込めて。姉のことを思い出すと、ヤスナの口元もわずかにほころぶ。


 容姿はそっくりなのに、性格は正反対だったフダラクの双子姫。人形のように大人しいヤスナに対して、頻繁ひんぱんに山城から脱走するお転婆てんばツクナ。そんな姉の土産話を聞くのが、幼いヤスナの何よりの楽しみだった──と言うことは、根は似たもの姉妹であったのか。


『吟遊詩人、ですか? ツ国の芸者ですよね』


『うむ、街の広場で出会うてな。この貝珠について教えてくれたのじゃ』


 〈オアシスの貝珠〉──双子の耳を飾る青い貝珠が、フダラクの外ではそう呼ばれていると。


 オアシスとは砂漠に湧く泉で、貝珠は海貝から採れる宝石、それぐらいは幼いヤスナも知っていた。しかし、その二つがどう結び付くものか。

 

 色取り取りの外套マントに身を包んだ吟遊詩人は、銀色の弦楽器をかき鳴らしながら語ったという。


 フダラク山国からは徒歩なら三ヶ月、風獣ハクホウの背に乗っても十日は到達に要するスィーナーン砂漠には、いくつものオアシスが点在している。その水底からオアシスの貝珠は稀に発見されるという。


 それは数千年前とも数万年前ともされる太古。四聖竜と四魔竜による天地創造が一段落し、セリヴェルドの大地と生態系が整いつつあった頃。


 増えすぎた人間を危険視して、〈魔水竜〉グームエオンが暴れ始めた。沿岸の街々を津波で洗い流し、内陸にまで大雨を降らせ、洪水で人々を苦しめた。


 当時は巨大な内海に住んでいた〈聖水竜〉アレクシルドは、グームエオンを迎え撃つべく本拠地であるエルナトーレ諸島に向かった。アレクシルドの眷属であるマーメイドたちも、その多くは兵士として随行した。だが、一部のマーメイドたちは、グームエオンとその眷属けんぞくであるおぞましきサハギンたちを恐れ、安全な内海から出ようとしなかった。


 アレクシルドは激戦の末グームエオンを封印することに成功するが、その後も内海に戻ることはなかった。封印を維持する為には、エルナトーレ諸島を巡って結界を描き続ける必要があったからである。


 アレクシルドが去った内海は、徐々に水位が下がり始めた。臆病なマーメイドたちが気付いた時には、内海は既に外海と切り離され、行き来が出来なくなっていた。


 マーメイドたちは歌で助けを求めたが、アレクシルドは既に浮島にその身を変えており──後のエルナトーレ共和国の総代島イルメダである──どうすることも出来なかった。


 とうとう内海は完全に干上がり、いくつかの水溜りを残すのみになった。マーメイドたちはいつか助けが来ると信じ、その身を青い貝珠に変えて眠りに就いた。


 そう、干上がった内海こそが現在のスィーナーン砂漠であり、オアシスはその最後の名残。オアシスの貝珠は取り残されたマーメイドたちの成れの果て──吟遊詩人はそう結んだという。


 可哀想と涙ぐむヤスナに、自業自得じゃと笑うツクナ──ああ、思えばあの時から既に、姉妹の未来は別々の道に別れ始めていたのかもしれない。


『政略結婚の道具にされるなんぞ真っ平じゃ。一緒に海を見に行こうぞ、ヤスナ』


 成人の儀の前日、外の世界に誘ってくれたツクナの手を、ヤスナは握り返すことが出来なかった。


 自分まで居なくなったら、両親が悲しむから──というのは、表向きの理由だ。山身合一拳技の達人であった姉に対して、鳥琴ちょうきんの演奏ぐらいしか取り柄がない自分が、外の世界でやって行けるとは思えない──要するに臆病だったのだ。内海に閉じこもった挙句、貝珠になってしまったマーメイドたちのように。


 あれから三年。エルナトーレの武術大会でフダラクから来た女拳士が優勝したと、風の噂に聞いた。その左耳の耳飾りには、世にも珍しい青い貝珠がはめ込まれていたという。

 

 姉には自らの物語をつむぐ力があったが、自分は他人の物語の脇役が精一杯だ。


 ヤスナはそっと貝珠の耳飾りを外した。ダキニ山国に入ってしまえば、出国は生涯叶わないかもしれない。せっかく砂漠から出られたのに、臆病な自分に付き合わせては可哀想だ。


(其方そなただけでもお行き、お姉様の居る海へ)


 透かし細工の窓から、貝珠の耳飾りをスガノ河へ投げ捨てる。ぽちゃんと微かな水音が聞こえ──。


「え?」


 ヤスナは確かに見た。川面から半人半魚の影が現れ、自分にぺこりと一礼するのを。すぐに霧にまぎれて見えなくなってしまったが。


 ヤスナはぺたんと子供のように腰を落とし──。


「さようなら──」


 姉との思い出に、少女だった自分に──永久とわの別れを告げた。

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