オアシスの貝珠
フダラク山国連邦の大動脈、スガノ河の景観はまさに水墨画のようだった。
山肌を
そんな
フダラク山に住まう〈聖火竜〉フレズニルを
フダラク山長家の御用船〈火竜丸〉だ。通りすがりの河漁師が、船側に
屋形最奥の
(市場に運ばれていく魚は、このような気分であろうか)
今日、ヤスナはダキニ山長家に嫁入りする。婿とは顔を合わせたこともない──山長家同士の婚約において、相手の容貌など問題にならない。否、すべきではないからだ。
ダキニ山国はかつてフダラク山国の属山であったが、二百年前のシエト帝国の侵攻に乗じて独立したという経緯がある。そのため、両国の関係は良好とは言い
生まれた時から決まっていたことだ。嫌だと口にしたことなど一度もない。
それでも──それでも。
ヤスナはそっと
(お姉様、お元気だろうか)
この耳飾りは父長があえて片方ずつ、ヤスナと双子の姉ツクナ姫に授けたものだ。娘たちが常に一心同体でいられるように、という願いを込めて。姉のことを思い出すと、ヤスナの口元も
容姿はそっくりなのに、性格は正反対だったフダラクの双子姫。人形のように大人しいヤスナに対して、
『吟遊詩人、ですか?
『うむ、街の広場で出会うてな。この貝珠について教えてくれたのじゃ』
〈オアシスの貝珠〉──双子の耳を飾る青い貝珠が、フダラクの外ではそう呼ばれていると。
オアシスとは砂漠に湧く泉で、貝珠は海貝から採れる宝石、それぐらいは幼いヤスナも知っていた。しかし、その二つがどう結び付くものか。
色取り取りの
フダラク山国からは徒歩なら三ヶ月、風獣ハクホウの背に乗っても十日は到達に要するスィーナーン砂漠には、いくつものオアシスが点在している。その水底からオアシスの貝珠は稀に発見されるという。
それは数千年前とも数万年前ともされる太古。四聖竜と四魔竜による天地創造が一段落し、セリヴェルドの大地と生態系が整いつつあった頃。
増えすぎた人間を危険視して、〈魔水竜〉グームエオンが暴れ始めた。沿岸の街々を津波で洗い流し、内陸にまで大雨を降らせ、洪水で人々を苦しめた。
当時は巨大な内海に住んでいた〈聖水竜〉アレクシルドは、グームエオンを迎え撃つべく本拠地であるエルナトーレ諸島に向かった。アレクシルドの眷属であるマーメイドたちも、その多くは兵士として随行した。だが、一部のマーメイドたちは、グームエオンとその
アレクシルドは激戦の末グームエオンを封印することに成功するが、その後も内海に戻ることはなかった。封印を維持する為には、エルナトーレ諸島を巡って結界を描き続ける必要があったからである。
アレクシルドが去った内海は、徐々に水位が下がり始めた。臆病なマーメイドたちが気付いた時には、内海は既に外海と切り離され、行き来が出来なくなっていた。
マーメイドたちは歌で助けを求めたが、アレクシルドは既に浮島にその身を変えており──後のエルナトーレ共和国の総代島イルメダである──どうすることも出来なかった。
とうとう内海は完全に干上がり、いくつかの水溜りを残すのみになった。マーメイドたちはいつか助けが来ると信じ、その身を青い貝珠に変えて眠りに就いた。
そう、干上がった内海こそが現在のスィーナーン砂漠であり、オアシスはその最後の名残。オアシスの貝珠は取り残されたマーメイドたちの成れの果て──吟遊詩人はそう結んだという。
可哀想と涙ぐむヤスナに、自業自得じゃと笑うツクナ──ああ、思えばあの時から既に、姉妹の未来は別々の道に別れ始めていたのかもしれない。
『政略結婚の道具にされるなんぞ真っ平じゃ。一緒に海を見に行こうぞ、ヤスナ』
成人の儀の前日、外の世界に誘ってくれたツクナの手を、ヤスナは握り返すことが出来なかった。
自分まで居なくなったら、両親が悲しむから──というのは、表向きの理由だ。山身合一拳技の達人であった姉に対して、
あれから三年。エルナトーレの武術大会でフダラクから来た女拳士が優勝したと、風の噂に聞いた。その左耳の耳飾りには、世にも珍しい青い貝珠がはめ込まれていたという。
姉には自らの物語を
ヤスナはそっと貝珠の耳飾りを外した。ダキニ山国に入ってしまえば、出国は生涯叶わないかもしれない。せっかく砂漠から出られたのに、臆病な自分に付き合わせては可哀想だ。
(
透かし細工の窓から、貝珠の耳飾りをスガノ河へ投げ捨てる。ぽちゃんと微かな水音が聞こえ──。
「え?」
ヤスナは確かに見た。川面から半人半魚の影が現れ、自分にぺこりと一礼するのを。すぐに霧に
ヤスナはぺたんと子供のように腰を落とし──。
「さようなら──」
姉との思い出に、少女だった自分に──
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