第31話

恐らく、千鶴子に悪気はない。




彼女はただ、息子に「お友達」を送ることを頼んだだけ。




それも咄嗟に思いついただけのことだ。




断じて千鶴子に悪気はない。




だから今、恐ろしく不機嫌な男の後ろをびくびくしながら歩いていても、桜子は千鶴子を恨む気持ちにはなれなかった。




自動車で送らせればいいだろうと主張した零の言葉を無視し、是非また来てほしいと送り出されたのはつい先刻のこと。




自動車に乗りたくないという桜子の意思を汲み徒歩でというよりは、平民を自動車に乗せたくないという態度を取る零の後ろをついて行く。




端から見れば軍人に連れられた女学生で、見方によれば連行されているようにも見えなくない。




無言のまま前を行く零を早足で追いかけていると、不意に長靴の音が止まった。




止まった場所は表通りから奥まったところにある通りで、民家も少なく塀が延々と続く。




夕闇の迫る今の時間には歩きたくない場所だが、家までの近道ではある。




「あ、あの……」




ここまででいい。




距離の問題もあるが、この男と共にいることが耐えられない。




重苦しい沈黙を破り、一応礼を告げようとした桜子が口を開くより先に、目の前の男が言った。

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