第29話

「お屋敷から門までかなりの距離がありますが……」



「大丈夫です。歩くことは好きですし」




心配そうな顔をする白木に首を振る。




できるのなら、自動車には乗りたくない。




乗り慣れないためか軽く酔ってしまい、更には嫌な思い出まである。




先日轢かれかけたことを思い出していると、千鶴子が手を叩いた。




「元気な方なのねぇ、桜子さん」



「奥様……」




無邪気な奥方を真顔で嗜める白木。




その光景にほっと和みかけた時、不意に玄関が開いた。




前触れのない出来事に固まる桜子とは違い、白木は素早く体勢を整え、現れた人物に頭を下げる。




「おかえりなさいませ、零様」



「白木、明日からの予定を組み直す。一旦千条院に会わねば……」




桜子は、言葉を失った。




人間、驚くとろくに声も出なくなるというのは、あながち間違いではなかったらしい。




零と呼ばれた男は顔を歪め、それから玄関に立つ桜子たちに気がついた。




機嫌の悪そうな顔から一転、訝しげな顔になる。




「母上、このような場所で何を」



「おかえりなさい、零。今ね、お友達を見送るところなの」




千鶴子の言葉に零はますます訝しげな顔をし、肩を掴まれ前のめりになった桜子に視線を移す。




どくり、と心臓が嫌な音をたて、鳴った。




きっちりと軍服を纏い、腰にサーベルを差し、凍てつく冬のような瞳をした男。




骨の髄まで射られるようなその眼差しの鋭さに桜子は何も言うことができない。




まるで喉に石を詰められてしまったかのように、声が出ない。




……だから、無言で見つめる。




先日、自分を轢きかけ、なおかつ謝罪の言葉もなく立ち去った男の顔を―――見つめる。

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