鎮炎の娘
七沢ななせ
第一話 橙子
豪商朱宮家の令嬢として蝶よ花よと大切に育てられるはずだった。燈子が十歳になるころ、火名が流行病をこじらせて他界し、その後すぐに灼良は後妻を迎えた。
燈子の人生が不協和音を奏で始めたのは、それからだった。
それは、青虫がさなぎになり蝶へと変化するようにゆっくりとした変化だった。けれども、誰の目から見ても明らかな変化であった。
〇
(寒い……)
手足が冷え切っている。木の格子窓から差し込む白い光で目が覚めた。薄い掛布団をゆっくりと持ち上げ、身体を起こして息をつく。吐き出した域は真っ白だった。
雪が積もったのか、耳が痛くなるほどの静けさだ。指を曲げると節々にできたあかぎれが開き、嫌な痛みを催した。燈子は顔をしかめ、そっと目を閉じる。まつげまで冷え切っているのがよくわかった。
「おはよう」
そっとつぶやいて、燈子は瞳を開けた。小さな棚の上に置いてある歯の欠けた櫛で髪をとく。特に何もしなくても、さらさらと引っかかるところのない黒髪は燈子の密かな自慢である。うなじで一本にくくり、粗末な麻の着物に着替えれば、塔この身支度はおしまいだ。
かんざしも、おしろいも、飾り帯もない。まるで使用人同然の姿――いや、使用人だってこれよりはましな格好をしているだろう。建付けの悪い戸を開けて外に出ると、やはり雪が積もっていた。くるぶしあたりまで積もった雪を踏んで井戸に向かいながら、燈子は憂鬱になる。足袋が濡れても替えはない。またしもやけが増えるなとため息をついた。
井戸は深く、暗い。
燈子はすっかりかじかんだ指で縄を引く。ぎいぎいと騎士見ながら滑車が回り、水がたっぷり入ったつるべが上がってきた。力を込めて引き上げると、燈子は水の中に手を差し入れた。
あまりの冷たさに、燈子はびくりと肩を震わせる。氷よりもなお冷たい水に、指先から骨まで痺れるようだ。おそるおそる顔を洗い、顎から水を滴らせたまま燈子は視線を落とす。水面に映った少女の顔は、いかにも弱そうで頼りない。
(醜い)
己の左頬に指を滑らせた。
青ざめた顔に、ひと際醜く主張するものがある。左頬から首筋にかけて広がる痣だ。薄茶色に広がった痣は、燈子の人生を狂わせ、欲しくもない憐れみと嫌悪を誘ってきた汚点である。家族の誰にもこんな痣などない。わざと強い力を込めて顔をぬぐった。
化け物の子。
それが燈子につけられた名前だった。燈子だけでなく、燈子を生んだ母までをも侮辱する言葉である。吐き気がするほど嫌悪する言葉だが、何よりも吐き気がするのはほかでもない自分自身だ。
己の力で否定し、止めることの出来ない弱さ。非力さ。自分の立場さえ守れず、いつの間にかここまで落ちた。ばしゃりとと乱暴に水面を叩き、くるりと井戸に背を向ける。雪の中をとぼとぼと母屋に歩く燈子は、あまりに華奢で今にも消えてしまいそうに脆弱だった。
〇
「不味い」
何のためらいもなく皿がひっくり返る。ぼとぼとと絨毯に落ちていく煮物は、燈子が作ったものだ。
「こんな残飯を私と
そう吐き捨てて、ナプキンで口元をぬぐうのは、燈子の義母である玉乃。
「お母様ったら。いくら残飯でもそんなに言ってはお姉さまがかわいそうじゃない」
あざけりを含んだ声で軽やかに言い放つのは、玉乃の娘である琳。燈子とは真逆の華やかな美貌を持つ彼女は、明らかに燈子を下に見ている。緩やかに波打つ茶髪を振り、義妹は床に落ちたごみを見るような目で燈子を見下ろした。
「申し訳ございません」
燈子は特に反抗することもなく謝罪し、こぼれた煮物を拾い始める。班の反応も示さない燈子を、琳と玉乃が悔しそうににらんでいるのは承知の上。
抵抗せず、感情を示さず、泣かない。
これが、燈子が身に着けた処世術だった。流れるままに、流されるままに。そうすれば面倒なことにはならない。幼いころは、玉乃や琳に嫌がらせをされるたびに泣いていた。そのたびに二人はいたって満足げな顔をしていたものだ。
弱みを見せれば付け入られる。だから泣かない。無でいること。何も感じないこと。しかし、表面上は取り繕っていても心中は穏やかではない。今すぐにでも二人に皿を投げつけ、口の中に料理を押し込んでやりたい。
(結局私は、これ以上傷つくのが怖いだけなのよ)
汁が染み込んだ絨毯を虚しく拭いながら、燈子は唇を噛む。人を呪わば穴二つ。生前母が教えてくれたことだ。だから燈子はあえて思いを押し殺す。母が亡くなり、玉乃たちがこの家にやってきたのは燈子が十歳になったばかりのことだ。使用人たちも突然の変化には戸惑ったようで、火名の喪も開けぬうちから奥様面で家を仕切り始めた玉乃に忠誠を誓うものはいなかった。
娼婦上がりの玉の輿女、火名様の足元にも及ばない女、朱宮家も落ちぶれたものだ……。玉乃はかたくなに自分を見とめようとしない古株の使用人たちを全員解雇し、新しい使用人を次々と雇った。朱宮家に――というよりも火名に心酔していた昔の使用人たちと違って、顔に痣のある幼い娘に心を砕いてくれる者は誰一人いなかった。
顔の痣を見れば嫌悪の表情を浮かべるか、哀れみのこもった目でこそこそと眺める。何が気に入らないのか、玉乃が使用人たちに燈子と口を利くことを禁じたせいで、燈子は徐々に孤立していった。父は仕事が忙しくて留守がちだったし、燈子にあまり興味を示さなかった。父が心から愛していたのは母であって、燈子は彼女と愛し合った末に生まれた副産物に過ぎない。孤立している燈子を気にかけることはなかった。
「早くしなさいよ、本当にのろまね」
琳がいらいらと怒鳴り声をあげた。
鎮炎の娘 七沢ななせ @hinako1223
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