扇風機のシオラン

まるで盗人のように外に出る。

両親が寝ていたことを確認し、ほとんどパジャマのまま夜の街に出た。生暖かい風が夏の夜を思わせる、街灯の優しい光が連なり、遠くで車の走る音が聞こえる。


一歩、一歩と歩みを進めた。まだ身体は重い、ゆっくりと身体を運んでいく。

どこに向かう?目的地はない。ただ、帰宅後ぐっすりと寝れるための運動だ。駅に向かう方の道はやめた。川が流れている方を選んで歩みを進める。一歩が辛い。やはり、やめとけばよかった。そんなことを考え始めた時には、もうすでに川が流れている土手まで来ていた。


土手を上がると、遠くに橋が見えた。

うつの人間の頭の中によぎることは、ろくでもない。その橋を見て、死ねると思った。部屋の中でも何度か首吊り自殺をしようかなんて思ったが、うまく出来ない。こうして外に出れたということは、チャンスでもあるのだ。


私は歩き出す。端までは少し遠い。

こんなに息が切れてしまうのか、ただ歩いているだけだというのに。


月の光でぼんやりと雲が見える。星は見えない。どんよりとした夜だった。死ぬにはいい日だ。一歩ずつ、一歩ずつ歩いていく。すると、すぐ隣をサラリーマンがビール缶を持って通り過ぎようとしていた。ドンと肩がぶつかる。私はその強さによろめき、倒れそうになった。


「気をつけろ、うすのろ」


サラリーマンはだいぶ酔っているようだった。私は何もすることが出来ず、ただそこに立ち尽くす。去っていくサラリーマン、その背をただ見ていることしか出来なかった。殺してやる、殺してやる。頭の中で何度もその言葉が生まれては消えた。しかし、身体が動かない。ただ悲しみだけが身体の中を駆け巡る。


死のう。


そうするしかないと、私は橋に向かって歩きだした。もうすぐ、橋の入り口だ。カミュはこれからどうなるだろう。あの部屋を使うことはもうないだろう。カミュは一人ぼっちだ。それでも「世の中は不条理なもんだ」なんて言って、一人でいるのだろうか。それとも、僕のように家電と話せる誰かと巡り合うことが出来るのだろうか。父や母の心配をするよりも、一台の家電のことを心配するなんて、やっぱりいかれてる。


「自殺だ自殺だ~!やれやれ~!」


どこからか声がした。不思議なことに、自分がこれからしようとしていることがわかっているようだった。それも、止める素振りは全くない。むしろ、喜んでいるかのように思えた。私は橋を渡ることはせず、その声の主を探した。橋の上には誰もいない、土手の先にも、いない。つまり、川に向かって生える雑草の群れたちの中から聞こえたのか?


「あ?おい、何してんだよ、さっさと飛び降りろよ。どうしたんだよ?」


確かに聞こえる。これは、もしかしたら。

ガサガサと草むらをかき分ける。ない、ない、なにもない。けれど、声だけはする。そして、やっとのことで見つけ出した。


「…お前、俺の声聞こえんのかよ?」


草をかき分けた先にあった物、それは、一昔前に使われていたであろう扇風機だった。

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