嫌われ者と化け物が踊った。月だけが見ていた。

この作者の引き出しの広さに、もう驚かなくなった自分がいる。でも読むたびにちゃんと驚く。今回は「悪徳男爵と吸血鬼伯爵のBLミステリー」。設定だけ聞くと重厚な話を想像するのに、読んでみると軽やかで、おかしくて、でもちゃんと胸が痛い。

ゴメスが好きです。「悪徳男爵」と呼ばれているけど実際は汚職を暴いた側で、人身売買は奴隷を買い取って使用人にしているだけ。社交性がないから悪評も放置している。この「誤解されたまま生きている男」の造形が、レイブンとの関係に効いてくる。二人とも世間から正しく見てもらえていない。嫌われ者と化け物。だから7話の「嫌われ者同士だな」が刺さる。

1話の断罪劇の受け止め方でゴメスの人間性が全部わかる。婚約破棄の茶番を「くだらない」と思いながらワインを飲み、「金でも積めば解決するのだ」と冷静に見ている。でもその茶番に自分が巻き込まれた瞬間、「なぜこのわたしが」と怒る。この自己中心的な怒り方が正直で好き。善人じゃない。でも悪人でもない。ただ自分の領分を守りたいだけの男。

レイブンの登場が2話の結婚式で、「一瞬、見惚れてしまった」の一文が効いている。ゴメスは自分で気づいていないけど、読者にはわかる。この男はもう落ちている。招待客リストを奪ってドアマンを叱り、伯爵を通す。この行動力が、後にレイブンを守るために動く伏線になっている。

2話のラストが怖い。結婚式の夜、大雨、乱暴なノック、ずぶ濡れのレイブン。停電。「ずるずるずるずる」。そして「静かに赤が広がっていた」。ここまでの軽妙なトーンが一瞬で凍る。この切り替えの速さがこの作者の武器。

3話の噛み跡のシーンが、この作品の転換点でした。レイブンが首筋を舐めて、噛む。「ぷつり」。本来は恐怖の行為。でもゴメスは「拍子抜けした」と言う。そして「照れてしまって大声で聞いてしまった」。噛まれたことが怖いんじゃなくて、恥ずかしい。この感情の取り違えが、ゴメスがレイブンをどう見ているかを正確に示している。

5話の墓暴きが好きです。「どうして!わたしが!墓暴きなどせんと!いかんのだ!」の怒り方が可愛い。「吸血鬼は墓場の土が苦手なのだ。頑張ってくれたまえ」の突き放し方も可愛い。殺人事件の捜査中なのに、二人のやり取りが漫才になっている。この軽さが、8話の重さを際立たせる。

8話。レイブンが牢に入れられ、日の光に灼かれている。「青白い肌は日の光に灼かれじりじりと傷ついていた」。ここでゴメスが初めて本気で怒る。衛兵に怒鳴り、酔っ払いを睨み、なりふり構わない。そしてレイブンが言う。「いいんだ男爵。あなたが信じていてくれればいい」。この台詞で、二人の関係の本質が見える。レイブンが欲しいのは無罪放免じゃない。ゴメスの信頼だけ。

9話の狼男の台詞が怖いのは、半分本当だからです。「化け物のくせに爵位なんざもらって人間に迎合しやがって」。レイブンが人間社会で生きようとしていること自体が、同族から見れば裏切り。ゴメスとの関係も、狼男から見れば「人間に媚びている証拠」。噛み跡を「お手つき」と呼ぶ下品さが、逆にレイブンの誠実さを浮き彫りにする。

10話の「このひとはわたしのものだ」。レイブンが初めて所有の言葉を使う。それまでずっと「死んで欲しくないからだ」「招いてくれるのか」「あなたが信じていてくれればいい」と、控えめに距離を保っていた男が、ゴメスを奪われそうになった瞬間に本音が出る。

そしてプロポーズ。「わたしはあなたを愛している。わたしの伴侶になってくれないか」。ゴメスの返事が「わたしでいいのか」。悪徳男爵と呼ばれ、嫌われ者で、社交性もない自分でいいのかと聞く。「あなたがいい」。この二語で十分。

ラストの夜会で踊るシーン。「わたしは年甲斐もなく踊り疲れるまで踊った」。この一文にゴメスの幸福が全部入っている。1話で最悪な気持ちでワインを飲んでいた男が、10話で踊り疲れるまで踊っている。バルコニーでキスして、「若い娘でもあるまいに」と笑う。この笑い方が好きです。照れを笑いで誤魔化す。ゴメスはずっとそうだった。

この人は「招き入れる」ことを書くのが上手いということです。ゴメスはレイブンを何度も「どうぞ」と招き入れた。吸血鬼は招かれないと入れない。その設定が、信頼の比喩として完璧に機能している。ゴメスが怖がらずに招き入れ続けたこと。それ自体が愛の形だった。

好きな作品です。出会えてよかった。ありがとうございました。