ピーターパン×遅延

 ーウェンディが話すおとぎ話を聞くのが好きだったピーターパン。ある日、犬に描きちぎられた影を取り戻すために夜中に忍び込みますが、影をくっ付けることができずに泣いているところをウェンディに見つかり、縫い付けてもらいます。お礼にと、ピーターは彼女をネバーランドへ招待するのです。妖精のティンカーベルの空飛ぶ粉で向かったネバーランドでは、子どもだけの家や人魚達、インディアンや海賊との戦いなど夢と冒険が詰まっていました・・




 ヤクルト自販機の前で、彼は立ち止まりました。

 ぼってりした腕を組んで品揃えをざっと睨んでから、水玉模様の小さなミルミルを選びます。

 小さな音で落下したミルミル。彼は億劫そうに屈んで、すくうようにして手に乗せると、器用に細いストローを突き出しました。

 帰宅時間帯の西国分寺駅下りホームです。

 週末の金曜日に、疲労感を張り付かせた乗客達は、浮き足立っているようにも、安堵しているようにも見えました。

 彼は、ストローを摘んでミルミル本体に突き刺しました。


 ・・俺にもかつては、土日祝日休みという理想の勤務形態があった。


 彼は、ミルミルを吸い込みました。優しい乳酸菌の味がささくれた彼の心を満たそうとしています。


 ・・もう何年も前の話だ。


 反対ホームで乗降する人間を眺めながら、彼はミルミルをちょっとずつ吸います。可能な限り長く味わっていたいのです。


 ・・俺、大人になったら、もっと、自由に生きられると、思ってたんだけどなぁ。


 大人になればなるほど、知識や常識が増えていって、わかることが多くなった分だけ身動きが取れなくなっていきました。物事の道理を理解しているからこそ、食み出さないように足並みを揃えるようになり、気付けば世間体や普通が足枷になっていたのです。集団でいれば守られると勘違いし、使い捨てにされるのがわかっていても、自分の価値や生活が捨て切れずに、しがみつかざる負えなかったのです。そんな弱肉強食の現代社会を生き抜くには、強い意志と言う名の意地と、柔軟な考えと言う名の負けず嫌い、強靭な精神力と言う名の打たれ強さの、三種の神器が必要なのです。ですが、ブラック企業に就職した場合には、三種の神器は本人を死に追い込む呪いへと変わることもあります。

 気付けば、コーヒーとエナジードリンク、栄養剤で合成された体液が循環する機械のような肉体になり果て、日ごとに黒い月面に近付く顔面には、血走って黄色い双眼がギラツき始めるのです。更に悪化していくと、知らず知らずのうちに独り言が増えていき、腹の調子が悪くなり、頭痛薬が手放せなくなり、血便が出始めます。独り言はいつまで経っても会話になることはなく、いつの間にか虚言癖のある狂人だと遠巻きにされ、精神科を紹介されるのです。限界を越えて働けば、機械だって壊れます。人間は気持ちや気合いで乗り越えられる部分があるから機械よりも丈夫だと思われているのでしょうか。


 ・・そんなわけねーだろう。 

 ・・おかしい話じゃあないか。


 働く専門として生産された機械でも壊れるのに、そうじゃない人間はたかだか無力な生身の肉体。壊れるに決まっています。けれど、働き蟻のごとく、壊れても替えがあるという考えなのか、劣悪な職場環境は一向に改善される気配はありません。一部の私利私欲のために。抗鬱薬を処方され、己に鞭打ち働き続けても、最終的には呪文を唱えながら電車に飛び込むことになるのです。それが、サラリーマンの有名なバッドコースってやつ。


 ・・そんなんなってまで、どうして働かなきゃいけない?


 働かざるもの食うべからずという、ことわざがあるが、生きるということと、働くということはイコールなのでしょうか。働かない者や働けない者は生きるべきではないということでしょうか。いや、そんなはずは、ない。断じてない、と彼は思います。けれど、正直わかりません。働かなければ金がなくなり、金がないと食べていけません。水だけで生き延びても、遅かれ速かれ食っていけなければ餓死が待っているのです。かといって、基礎疾患や持病もなくて健康体の成人はそう簡単には生活保護は受けられません。


 ・・いや、その前に失業手当てというものがある。それを限界までもらって、就活をすればいいのではないか。

 ・・ハローワークの吊り求人募集情報は、ダメだ。

 ・・どんなに高待遇で掲載されていても、まったく当てにはならない。競争率と倍率がやたら高い割に、受かった試しがないからな。キャリアがないと厳しいんだ。キャリアが。だから、まずはキャリアの問題を・・・・

 ・・そういえば。キャリアと言えば新しい新卒。なんだアレ。なんだアイツ。なんだ、あの言葉遣い。あの態度は? 

 ・・俺よりいい大学出てるからって、いい気になりやがって。完全に舐めてやがる。

 ・・いつまでも学生気分でいやがって。世間ってもんが、まるでわかってねぇだろ。


 彼は、ミルミル片手に一人でぶつぶつと話し続けます。

「電車をお待ちのお客様にお知らせいたします。先程、三鷹駅にて非常停止ボタンが押されました関係で現在、上下線共に十分程の遅れを持ちまして運行しております。お急ぎのお客様には、大変ご迷惑をおかけいたしますがー」

 遅延のアナウンスが響きました。彼の独り言は続きます。



「いらっしゃいませ!お一人様ですか? 待ち合わせはございますか? お煙草は吸われますか?」

 学生風の元気だけが取り柄のような金髪ガールアルバイター。

 彼は、ノーを挟んでイエス二回の簡潔な返事で済まします。

「かしこまりました!お一人様、喫煙席にご案内でーす!待ち合わせはありませーん!」

 金髪ガールは店内に向かって叫びました。


 ・・おい。待ち合わせいねぇとか余計なこと拡散すんな。花金にぼっちで居酒屋に来てる五十代男なんて、火あぶり対象の何者でもねぇ。ネットで見たら落ち着いてそうな店内だったし、クーポン内容がお得だったから来てみたが、二度とは来るまい。


 彼は顔を伏せるようにして、賑わっている店内に足を踏み入れました。

 騒がしいので店員が叫ばなければ伝達できないのはわかりますが、大袈裟過ぎます。

「了解!いらっっしゃいませー!待ち合わせなしのお一人様、喫煙席にご案内ー!こちらへどうぞー!」

 引き継いだ若い男の店員が、笑顔で口々に叫びながら奥に案内します。


 ・・おい、黙れ。

 ・・広めんじゃねぇ。


 彼は徐々に苛々してきました。

「待ち合わせなしのお一人様、いらっしゃいませー!」

 通り過ぎる店員が、いちいち大声を張り上げます。木霊のように店内の隅々に伝達される彼のちょっとした個人情報を、苦虫を噛み潰したような顔で聞きながら、彼は想像します。


 ・・今、俺の手元に機関銃があれば、この店を頭の悪い店員ごと集合体恐怖症の人間が見れないくらいの蜂の巣にできる。そして、それを満足げに眺めて、なんなら無礼な店員どもの転がった頭を足蹴にしながら煙草を吹かすカッコいい己の姿を。


 彼は、へっと口角を片方上げて、案内されたカウンター席の奥に腰を下ろしました。

「待ち合わせなしのお一人様、奥の喫煙席にご案内完了です!」


 ・・最後の最後まで、うるせーよ。


 入店の余計な伝言以外は、料理も上手いし酒も早いしと、なかなか優良な居酒屋ではありました。活気があるのはスタッフの年齢が若いからでしょうか。


 ・・辛気臭ぇより元気があるのはいいことだがな


 日本酒に切り替えようかと彼がメニューを眺めている時でした。

「あれれれれー? 待ち合わせなしの寂しいお一人様って言うから、一体どーんな可哀想なヤツなのかと思って見に来たらーピーターじゃーん」

 気の強そうな太い眉毛に、カールした明るい髪、ぽっちゃりとした白豚のような女が顔を出しました。

「・・・・誰だよ」

「うっそぉ! 覚えてないのぉ? あたしだよ、あ・た・し!」

 彼が、見覚えがある部分を探してどんなに女を凝視しても、白豚は白豚にしか見えず、記憶のどこにも引っ掛かりませんでした。女の光る頬が、ついさっき食べたホルモンを連想させました。

 うそぉーと連呼するウザい白豚は目の縁を赤く染め、だいぶ酔っているようです。


 ・・・・面倒臭ぇ。


「オレオレ詐欺だろ」

「詐欺じゃないよぉ! あたしだってばぁ! あ・た・し・イカケ!」

 どこかで聞いた事がある単語が出てきたように思いました。

「よく一緒に遊んだじゃーん! ホラぁ海賊ごっこ」

「お待たせいたしましたー! イカの塩辛でーす!」店員が女を押しのけて、塩辛を置きました。「イカケ」の記憶を呼び起こそうとしていた彼の脳みそは一瞬にして塩辛で一杯になりました。

「ちっ。まぁいーけどぉーでも、なーんかピーターさぁー湿っ気た面してんねぇー」

 彼が思い出さないことに苛立ったのか舌打ちをした白豚は、前髪を引っ張りながら刺々しく聞いてきます。

「放っとけ」

「今、仕事なにしてんのー?」

「◯◯電気の・・・」

「え、マジ? ヤッバー! ブラック企業で、有名な会社じゃん! はーはーはーだから、そんななんだぁー」

 彼は、塩辛を口に運ぶことに集中して思い出せなかった白豚の存在を忘れようと努めました。

「いいものあげよっかー」そう言って白豚は小さな紙包みをテーブルに置きました。彼がそれを手に取って不審そうに眺めている間に、女は唾を吐いて背を向けたのです。

「元気になって勇気が出るよ。じゃあねー」

 白豚が置いていった紙には、小麦粉のような白い粉が包まれていました。


 これ・・・ドラッグじゃねぇか?


 少し狼狽した彼は、トイレに流そうかとも思ったのですが、思い直して胸ポケットにしまいました。



「電車をお待ちのお客様にお知らせいたします。国分寺、三鷹間に起きまして線路内に人の立ち入りがありました関係で、現在上下線とも遅れてが生じております。お急ぎのお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますがー」

 中央線が、また遅延していました。


 ・・俺の休みの前には必ず遅延するのな。


 彼は、例の如くミルミルを飲みながら、アナウンスを聞いて独り言を漏らしていました。

「おまえ、ちょっと休め」滅多に言葉を発しない上司に肩を叩かれたのです。


 ・・どういうつもりだ。今月に入って2度目の休み。おかしい。

 ・・俺は干されようとしてるのか?

 後輩の態度に対してちょっと苦言を呈した。ただそれだけでした。


 ・・俺も散々叩かれた。だのに、

 ・・ゆとり世代だから? 見守り教育? ふざけんな。

 ・・あいつらが好き勝手やってるお陰で、こっちに業務が回ってきて取引先からの苦情電話が鳴りっ放しだ。対応を間に合わせるために、休日返上で連日サビ残してるのを知らないのか。だのに、これだ。

 ・・どういうつもりだ一体。こんなに会社に貢献した俺を切るなんて正気の沙汰じゃない。

 ・・俺が抱えている業務は誰が引き継ぐんだ。能無しの後輩じゃ無理だろう。無理なはずだ。無理に決まっている。

 ・・あー苛々するな。どうして、俺がこんな・・・・

 ・・いや、前向きに捉えよう。

 ・・俺みたいな有能な人間を首にするわけないじゃないか。明らかな会社の損失になるだろう。今までの功績を見ればわかること。そんな愚選択をいくらブラック企業だといっても犯す訳はない。


「電車をお待ちのお客様に、再度お知らせいたします。国分寺、三鷹間に起きまして線路内に人の立ち入りがありました関係で、現在上下線とも遅れてが生じております。お急ぎのお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますがー」 

 修行僧のようにスマホに没頭する者、隠れるようにモソモソと飲食する者、やたら時間を気にして眉間の皺が深い者、自分がいる場所に確信が持てない者、やけにハイテンションで声がデカい者、ボンヤリと線路の先を見つめる者。電車が遅延しようとしまいと、乗車待ち時間の過ごし方はそれぞれです。

 そんな乗車待ちの列の後方で、ぶつぶつぶつぶつ。

 ミルミル片手に彼の独り言は続きます。が、誰も気にするものはいません。誰も彼もがどうでもいいのです。

 虚ろな彼の視界を、春風のように華やかな一団が通り過ぎました。

 聞き覚えのある声に、彼がはっと目を向けると、同じ会社の女子社員達なのが知れました。

 彼が珍しく注目していたのは、その中に会社一の美女と呼び声も高い受付嬢のミズノトモコが混じっていたからでした。彼とミズノトモコとは同期だったのです。なので、彼は高値の花と呼ばれる前の彼女と何度か言葉を交わしたことがあれば、一緒に飲みに行ったことだってありました。いつのまにか話さなくなって、どのくらい経ったのでしょう。彼には、それすら記憶にありませんでした。

 彼女達はお喋りに夢中で、じっとりと見つめる彼に気付く者はいません。

「トモコ、社長からのプロポーズ受けるのぉ?」鼻ぺちゃが口火を切りました。

「受けたら、生活安泰じゃない? 社長は、そのままトモコを自分の秘書にする考えみたいよ」ブスが言います。

「・・・まだ迷ってる」ミズノトモコが髪を耳にかけて、はにかみました。

「どうしてぇー? 即答でしょお。玉の輿だよー絶対受けたほうがいいってぇー」と、ブスが言います。

「だって、社長、モテるでしょ? 浮いた話が各支店にたくさんあるし。そんな人って不安で」


 ・・・・相変わらず、真面目で堅実なものの考えかたをするんだな。


 その堅苦しいくらいの古風な考えに、逆に好感を持っていたことをふっと思い出した彼は人知れず口許を緩ませます。

 彼女は続けました。

「私、一途な人と結婚したいの」

「そうは言っても、断ったら下手したら首よ。黒ひげは、プライドだけは人一倍高いから。振られたなんて恥ずかしいこと誰にも知られたくないはず。わかるでしょ?」鼻ぺちゃが説得します。

「そうそう。だから、最近もホラ、いいとこの大学出の僕ちゃんに痛いとこ突っ込まれて、恥かいたからって激怒して。でも、見栄でそういう人材は残しておきたいからって、ねぇ」ねぇとブスの言葉を引き継ぐ鼻ぺちゃ。

「全然関係ないヒタ君のせいにしてさ」

 ミルミルを吸っていた彼の喉が止まりました。

 彼の耳は彼女らの一語一句を聞き逃すまいと鋭感な集音器となります。

「よくわからない理由つけて休ませて、絶対に解雇する気だよ。僕ちゃんの代わりに、腹いせのつもりなんじゃない? 冗談じゃないよねぇ。ヒタ君、可哀想にねぇ」ブスが締め括りました。

「嘘・・どうして誰よりも働いているヒタさんが、関係ないとばっちりを食わなきゃいけないの?」

 その通りだ。ミズノトモコと一緒に彼も唖然としています。

「なんか、彼、過剰労働し過ぎのストレスで独り言が酷くなっちゃってたでしょ。で、仲間内でも狂人扱いされて嫌われていたみたいで。最初は、好青年でそんなんじゃなかったのにね。会社にメンタル壊されたようなもんよ。会社からしたらお払い箱にできるいい機会だったんじゃないの?」耳障りな甲高い声が彼の耳に残りました。



『私が御社を志望した理由は、電気が、暗闇に灯りをともしてくれるからです。どんなに暗く寒い夜にも、電気は温かさを提供してくれます。電気があれば、夜でも本が読めます。絵が描けます。テレビが見れます。そして、文字が書けます。私は、電気を通じて子どもたちに夢を諦めずに大切にすることを伝えていきたいと思っています』


 ・・ははっ


 見上げたシミだらけの木目の天井に、いつかの自分が炙り出され、彼は笑ってしまいました。


 ・・青臭いのもいい加減にしろよ。

 ・・子ども達の夢ってなんだよ。電気関係ねーだろう。無理矢理過ぎるだろ。

 ・・ははは


 弱い立場の者は容赦なく攻撃されて、篩にかけられていきました。子どものイジメみたいに。だけど、残った自分は弱くないと思っていました。残った者を見回しても弱そうに見えなかったからです。だけど、どうしてだか年々残る人数は減っていったのです。

 

 ・・どうしてだか、俺は考えなかった。いや、考えようとしなかった。考えたくなかったんだ。

 ・・自分には関係ないと思っていたかった。

 ・・自分は選ばれた人間だ。大丈夫、となんの根拠もなく思おうとしていた。思い込もうとして。バカだなぁ。

 ・・いくらいい時があったところで、使い捨てにされるのがオチだってわかってたくせにさぁ。

 ・・どこかで自分は例外だと思ってたんだ。

 ・・そんなわけないのにさぁ・・・はははは。泣けてくら。


 己の愚かさと傲慢さが身に滲み、あまりに忌々しく思えて、さりとて当たるものもないので、彼は脱いだジャケットを力任せに壁に投げつけました。壁に衝突したジャケットは力なくズルズルと落ち、小さな包みが転がり出てきました。いつかの居酒屋で白豚にもらったドラッグです。拾い上げて中身を確かめると、怪しい粉は無事でした。

 彼はしばらくの間、それを眺めていましたが、溜め息をついてサイドテーブルの上に置きました。

 明日からの予定はゼロでした。



「電車をお待ちのお客様にお知らせいたします。豊田、八王子間で起きた人身事故の関係で、現在上下線ともに十分ほどの遅れてを生じております。お急ぎのお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますがー」


 ・・また、遅延だ。


 明日から俺の休みが始まるから仕方ないか、と彼はミルミルのボタンを押しました。出てきたミルミルにストローを突き刺しながら反対ホームに移動します。


  ♫ 忘れ物はなんですかぁ

    見つけにくいものですかぁ


 鼻歌混じりの彼は、いつになくご機嫌でした。

 抜けるような青空の下、小鳥がさえずる気持ちのいい朝です。

 通勤客が、彼をチラチラと一瞥しては素早く視線を逸らしていきます。誰もが関わり合いになどなりたくないのでしょう。

 彼はいつものように中央線に乗って会社へと向かいました。扉脇に陣取ることに成功した彼。今日は車内でもミルミルを味わい続けます。彼は、車内で飲み食いする輩をずっと軽蔑してきました。ですが、そんな社会のマナーなどもうどうでもよかったのです。見慣れた景色が車窓を通り過ぎていきました。


  ♫ 机の中もぉ鞄の中もぉ

    探したけれど見つからないのぉ 


 新宿で、その他大勢と山手線に乗り換えました。飲み終わったミルミルは、ゴミ箱に捨てます。

 新橋で降りて、腕時計を確認しました。

 社長が出席する月に一度の全体ミーティング開始時間まであと五分。


 ・・正確過ぎて自分が怖い。

 ・・はははは


 彼は表玄関から堂々と入場しました。

 受付嬢のミズノトモコと目が合います。彼女は、小さな驚きの表情のあと、にっこりと笑顔になりました。

 通り過ぎ様、彼は持参したポカリスウェットに似た濁った液体が入ったペットボトルを振り、次いで優勝トロフィーのように掲げると一気に煽りました。


  ♫ まだまだ探す気ですかぁ

    それより僕と踊りませんかぁ


「それでは、時間となりましたので、これより全体ミーティングを開始いたします。まずー」

 進行役の言葉を遮って、勢いよく扉を蹴り開けた彼。その場の視線を一身に浴びて、片減りした年紀の入った革靴でテーブルにびたんと飛び乗ると、社長の前へとずかずか歩いていきました。

 なんだね君は! と止めようとする役職共を華麗にかわした彼は、背負ったリュックから段ボールで作った剣を取り出しました。昨夜徹夜で仕上げた自信作です。それを黒ひげ社長に突きつけました。

 社長は冷ややかに彼を眺めているだけで、組んだ腕と足を一向に解こうとはしませんでした。

 彼は無言で、更に剣を突きつけました。

「これはなんだ? なんの真似事だ? こんなことをして、だからなんだ? なにか変わるとでも、思っているのか?」

 社長が髭を撫でながら問いました。

 ・・否。

 ・・これは、所詮ただのパフォーマンスである。意味はない。

 ・・こんなバカげたアクションで、なにかが変わることを期待するわけない。


 けれど、彼は返答を発しませんでした。


  ♫ 夢の中へ

    夢の中へ

     行ってみたいと思いませんかぁ 


 彼は、段ボールの剣をばっちり整えられた黒ひげ社長の頭に振り下ろしました。何度も何度も振り下ろしました。

 ぱっこんぱっこんと乾いた音がして剣はぼっきり折れました。社長は髪型が少し乱れたくらいで微動だにしません。

 息を切らした彼は押さえ込もうと飛びかかる警備員の手をすり抜け、走り去りそのまま行方不明になりました。

 あとには、折れた段ボールの剣だけが残されたのです。


  ♫ るるる〜

    るるる〜

     るるる〜





「社長それ、流行ってますよね。おれ読みましたけど、共感しまくりで、マジでいいっす」

 若い部下が馴れ馴れしく話しかけてきました。


 ・・コイツは確か、いい大学を出ている使えない若手グループのリーダー格だ。

 ・・一般常識やマナーすら躾けられずに社会に野放しにされた態度ばかりデカい新卒共。こいつらは会社への貢献などという気持ちは微塵も持ち合わせていないのだろう。そのくせ意見ばかりしてくる。厄介な連中だ。


「やっぱ社会のモラルとかルールっつーもんはくだらないなと改めて感じましたわ。大人になるっつーことが、そんなものを重視して生きることなら、おれは断固勘弁っすね。自由でいたいんで」

 聞いてもいないことをベラベラと喋り続ける部下をしっしと追い払った彼は、手にした本のタイトルを改めて眺めました。

『大人になりたがらない少年たち』

 注目すべきは、表紙に描かれた折れた段ボールの剣。


 ・・見覚えがある。

 ・・いつかの乱入した男が持っていた。ペンネームではわからないが、この本の執筆者はあの男だろうか?

 といっても、彼は剣を突きつけてきた男の顔すら覚えてはいませんでした。人事に問い合わせれば判明するのでしょうが、わかったところで、だからなんなんだと彼に興味は皆無でした。あの時、乱入して来た無礼な男に彼は、こんなことをしてなんになるのかと問い掛けました。けれど、男の返答はなかったのです。突発的な理由なき行動なのでしょう。


 ・・結局、なにがしたいのかわからなかったな。

 ・・だが、どうでもいい。そんなことに、いちいち構っていられない。

 ・・そんなこと、この世の中には掃いて捨てるほどあちこちに転がっているじゃないか。

 ・・珍しいことでもなんでもない。

 ・・ブラック企業だからなんだってんだ。そうでもしないと生き残っていけないんだよ。

 ・・下々の奴らは目の前の不平不満ばかりに目を向ける。

 ・・嫌なら辞めろ。会社のせいにするな。依存するな。

 ・・自分の人生くらい自分で切り開け。

 ・・この世は苦海。夢に楽土を求めるな。

 ・・そんなことをするから現実が辛くなるんだ。

 ・・夢の世界なんて嘘っぱちだ。

 ・・大人は自ら夢を作っていくものだ。自分たちだけが辛いとか思ってんじゃねぇよ。


 彼は、そんなことを考えながら一階の受付に降りていきました。

 彼に気付いた受付嬢たちが一斉にお辞儀をします。お目当ての顔がいません。今日は休みでしょうか。

「ミズノさんの次の出勤日はいつだい? その時に私のところに来るように伝えてくれるかい?」

「はい・・・あの」

 一番化粧の濃い年増女が能面のような顔を上げ、怖々口を開きます。

 彼の脳裏に、祖父の家の蔵の中で女にそっくりな古ぼけたお面を見た記憶が浮かびました。

「ミズノトモコさんは最近欠勤続きだったんですが、昨日、退職届が届きました」

 彼の頭の中に段ボールの剣が現れました。

 彼はそれを掴むと、目の前の能面女をぱこぱこと叩き出しました。けれど叩けども叩けども能面は変わらずそこにあります。彼は力の限りに叩き続けます。


 ・・おぉ、これは傷害罪に引っ掛からない程度の憂さ晴らしになるな。


 彼は、剣が折れるまで叩き続けたのでした。

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童話×電車 御伽話ぬゑ @nogi-uyou

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