3.脆弱な家族
家に帰ると、姉さんに蹴られた。「遅いんだよ。母さん泣いてんぞ。カス」
ぼくの顔に脚に痣ができる。明日にはできている。
先に謝りにいかないと。お母さんに。心配させてしまった。一分でも遅れるとお母さんは心配でしょうがなくて、泣いてしまう。ごめんね。お母さん。ごめんね。
ぼくはお母さんに謝った。おかあさんは食卓に突っ伏していた。
「ごめんね」
お母さんはうんともすんとも言わなかった。ただ泣いている。
お母さんは、本当は、ぼくのために泣いているんじゃない。ぼくを心配しているんじゃない。家族の帰りが遅れることに泣いているのだ。
お父さんが帰ってこないから。いつまでたっても帰ってこないから。でも今日もお母さんは、夜ご飯を四人分作っている。お父さんは帰ってこないのに。
どうしようもない親子だ。ぼくは思った。しっかり者のお姉さん以外、どうしようもない家族だ! 不倫の父親。錯乱母親。イジメを見ているだけしかない弱い子供。弱い子供。ぼくたちは脆弱だ。
「お前、来月ライブ行くから、ついて来いよ」姉さんが言った。「みぱつが来いって」
姉さんがぼくの予定を決める。ぼくは暇なときはずっとオナニーしかしていないから。いたるところにあるイジメが嫌で、目を逸らしたくて、オナニーばっかりしている。
学校では、ぼくは一人だけ話す子がいる。「くるみ」ちゃんは七年生で、ぼくと同い年の女の子で、芸能事務所に入りたがっている。オーディションを何回も受けているらしい。何のオーディションか、ぼくは知らなかった。
ぼくとくるみちゃんは、いつも空き教室で昼ご飯を食べる。
「きょうくん、今日、商店街の近くを「いむゥ」くんが歩いてたの見た?」
くるみちゃんはミーハーで、男性アイドルが好きだ。
「アイドルの?」
「そう。「神213」のいむゥくん。もーめっちゃかっこよかったあ」
アイドルじゃん。ぼくは思った。アイドルは神じゃない!
「神213がいれば、毎日が楽しい。しかも今日はいむゥ君を見れた。声かければよかった。迷惑がられても話しかければよかった」
神213万歳。くるみちゃんは言った。
「ぼくはアイドル興味ないから、いむゥ? くんが目の前にいてもいむゥくんだと分からないよ」
「でしょうね。それにきょうくん、いつも下向いて歩いているからじゃない」
ぼくはイジメを見たくないからだ。でも、地面を見ていても、地面にもイジメとか、イジメの痕跡を見つけたりする。イジメはどこにでもあって、例えば蟻とかダンゴムシの世界にもある。
ぼくはどこを見ればいいんだ! イジメだらけで、どこを見ればいいんだ!
「なんでイジメは起こるんだろう」
「それ、いつも言っているよ」
ぼくは弱いから、同じことしか言えない。自分の弱さを棚上げにして、世界が歪んでいることを訝しむしかない。
「イジメなんかどうでもいいことだよ」くるみちゃんはクリームパンを齧って、歯形の付いた側をぼくに差し出した。ぼくは差し出されたクリームパンを齧った。
「わたしには神213がいればそれでいいよ。イジメられても、どうでもいい。わたしは神213のメンバーを守りたいんだ。もちろんメンバーがイジメられるのは許さないけれど」
「どんな人であれ、イジメはよくないよ」ぼくは口調が強くなっているのに気付いた。「でも、ぼくは何もできない。弱いから何もできない」
また今日もイジメが起こっている。ぼくは目と耳を塞いで家に帰った。
みぱつさんがいた。ぼくはみぱつさんだ、と思った。今日もか、と思った。
「ああああ」後、姉さんのベッドでぼくとみぱつさんは並んで寝そべっている。姉さんはなぜか、みぱつさんと一緒にいるときはぼくを殴ったり蹴ったりしなかった。今、姉さんは椅子にだらしなく座って、スマホを指で叩いていた。
「来月さ、ライブ行こうよ」みぱつさんが、ぼくの前髪を触りながら言った。
「うん」姉さんが決めた予定だ。
「珊瑚町でライブがあるの。神213のライブ」
神213!? くるみちゃんの好きなアイドル、神213。「みぱつさん、神213好きなの?」
「別に。友達が行けなくなって、チケットを三枚貰ったんだよ」
「今日、商店街の近くにいむゥ? っていう神213のメンバーがいたって、くるみちゃんが言っていたよ」
何の前触れもなく、みぱつさんはぼくの頬を張った。
え? え?
「くるみちゃんって女の子?」
「うん」
また殴られた。え?
「わたしの前で、ほかの女の子の話しないで」
「姉さんは?」
「いいよ、別に。「まつめつ」の話ならいいよ」
まつめつ。ぼくのしっかり者の姉さん。
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