Ⅲ
§5
「なるほど、事情は把握した。ではまず、気配を消すところを見せてもらってもいいかな?」
言われた通り波を消しながら、俺はこれからの身の振り方について考えていた。一度バレてしまった以上、もうあの場所で盗みを働くことは難しいだろう……。
そろそろ拠点を変えようか。
ミラザの商店街にはかなり世話になったので、それなりに愛着がある。少し寂しいが、それでも背に腹は替えられない。
また、俺が刑務所に連れて行かれるのかと尋ねた際、ウルラの魔術師は明らかに言い
とにかく罪に問われないのなら、このエルフの魔術師さまのありがたいお言葉を頂いて、さっさとこの町からトンズラしよう。
「そう言えば、挨拶がまだだったね。私はこの家の当主、アンジェリーナだ」
すると、アンジェリーナと名乗った魔術師はこちらに一歩近づき、俺と視線を合わせるようにかがんで見せた。
「君の名前を聞いてもいいかな?」
その表情は、慈愛に満ちていた。俺はいつの間にか、高名な画家が生涯をかけて完成させた宗教画を見ているような、そんな感覚に陥っていたのだ。とにかくその人物は、確かにそこにいるはずなのに。
まるで、現実味がなかった。
かつて一度、同じような感覚に陥ったことがある。その相手は奇しくも、俺に盗人としてのイロハを叩き込んだ張本人だった。お互い名前すら知らない仲だったが、二人で過ごした日々はとても充実していた。大して年の差はないはずなのに俺を若者と呼んでいたあの人は、今も元気にしているだろうか?
「名前は、知らないよ」
「そうか、それは困ったね。では、今から君の名前を決めようか。これがないと色々不便だからね」
「不便? 別に何も困ってないけど」
「いいや、これから困るのさ。何せ今日から君は…… ここで暮らすのだから」
「……は? さっきの話を聞いてなかったの? 俺はふつうに生きていけるような精神を、持ちあわせていないよ?」
「本当に?」
「ああ、本当だよ」
「少なくとも、私はそう思わない。なぜなら君と私は価値観こそ違えど、こうして話が通じている。君が言うような狂気に満ちた精神の持ち主というものは我々のような一般人と、そもそも話が通じるわけがないんだ。だからそう心配しなくてもいい。君はただ、盗むことより楽しいことを知らないだけさ」
「知らない……」
「盗むこと以外に、何か興味のわくことはあるかい?」
「まぁ、ダンジョンとかかな。でもあそこは……」
「それも問題ないよ。私が身寄りのない子を拾った、と役所に言えばいいだけさ。一週間もしないうちに君の身分証が届き、それを使ってダンジョンに入る申請を行えるだろう」
これは恐らく…… 罠だろうな。身分証という俺のような人間が喉から手が出るほどの一品を提示することで、俺からイエスを引き出す。その後、奴隷なり魔術の実験体なりやりたい放題というわけか。
なにせ法律が適用されるのは、その国で暮らす国民に対してだからな。俺がどうなろうとも、この国の正義が働くことなどない。つまり、
「その提案は、断る」
「……理由を聞いてもいいかい?」
「あなたは自分で言った価値観の違いを、過小評価している。あなたにとっての幸福が、俺にとっての幸福になると考えているなら大きな間違いだ。あなたからすれば俺は、身寄りがなくて盗むことくらいしか楽しめない不幸な子に見えるのだろう。だが、今の俺の生活はとても充実しているし、もうすでに幸福なんだ。これ以上、干渉しないでほしい」
「悪いがそれは無理な相談、というものさ。とは言えいきなり初対面の相手を信用しろというのもまた、無理な相談というわけか……。ならば、一週間後また会おう。それまでに君の身分証を作り━━━ 」
「必ず、届けて見せる」
先ほどまで穏やかな表情をしていたアンジェリーナだったが、ここでそれが一変する。俺の身分証を必ず届けると宣言した時、彼女の表情は決闘に挑む戦士のそれだった。このまま話を断ったところで地の果てまで追ってきそうな強い覚悟を、はらんでいた。
「……分かった。なら、一週間後またここで」
は? 俺はなぜ、この取引に応じてしまった? もうすでに彼女の魔術にかかってしまっている……。いや、手遅れな状況について考えるのは無意味だろう。なら、彼女が見せた気迫にのまれた? それも考えにくい。だとすれば……。俺の理性に反して、直感がイエスを導き出したというのか?
「その前に、君の名前を決めないと。何か案はあるかい?」
「名前か。そう言われてもなかなか……」
「なら、私が決めよう。今日から君の名前は、ローズだ」
おいおい、勘弁してくれよ。俺は男だぞ。
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