磁力推進車がトルネシア南自治区にある彼女の自宅に付いた頃、リリネルは少し気分が悪そうにしていた。

「大丈夫か?」

〈いいえ、ダメ、かも〉

 そう言うと俺にもたれ掛かってくる。俺は彼女の家の庭に磁力推進車を停めると車椅子を運ぶ事すら後にして扉を叩いた。顔を出したクラリスは俺の存在を睨むがリリネルの様子に気付いて二人と一匹をリビングに招き入れた。

「ライン潤滑剤は? まさか投与してないの?」

 彼女の質問に俺はそれらしい記憶が無い事を告げる。すると目を見張って怒りを露わにしながら彼女は冷蔵庫の中にしまってあった注入器を準備し始める。

「ほら、リリネル」

 クラリスの呼び掛けにリリネルは俺の首に腕を回してグズッた。まるで幼児退行したその様に俺は当惑したが、クラリスがそのままリリネルの首筋に注入器の長い針を翳した事で次に行う事を理解する。

「リリネルのライン潤滑剤は特別なの。だから出先では量の多いダイラー社製の物を使うってその場しのぎをしているのよ。ったく、読んでないでしょ」

 彼女から手渡された説明書の事だと理解して俺は自分自身を責めた。そんな憐憫の感情すらもクラリスにとっては怒りに油を注ぐ事であり、唇を噛んだ少女はリリネルの潤滑剤投入口に針を差し込む。

「んっぐっっ!」

 酷い痛みなのだろう。リリネルは俺の身体にしがみついて背に爪を立てた。俺は彼女の表情を見る事が出来なかった。思わずリリネルが自分の腕に噛みついて痛みを和らげようとするのを、クラリスは慣れた手つきで自分の腕を噛ませた。

 よく見ると複数の歯型があり、これが日常的に行われている事だと知る。そうして十数分、長い時間と共に、俺はリリネルの立てる爪と失禁の受け皿になって役目を終える。

 涙と涎に染まった少女はぐったりとして、そしてライン潤滑剤によって明瞭になった意識が俺を認識するとクラリスに抱き着いた。

「大丈夫、大丈夫だからね? 早くお風呂に行きましょう」

 クラリスを抱き抱えて彼女は浴室へと向かった。俺はリリネルの尿で濡れた服を脱ぎ、彼女等が出てきたタイミングで入浴を表明する。

「汚さないでよ」

 そう釘を刺したクラリス、今回は俺の過失だと考えて彼女の叱責を甘んじて風呂を浴び衣服を洗濯した。その時間はカラスの行水さながらに身体を拭きながらリビングを目指す。だが途中の廊下でクラリスに捕まり、俺はまた小言を覚悟した。

「貴方、なんなの……、どうしてあの子は貴方を選んだの」

 その逼迫した感情の源泉は即ち二人きりの時間に比例して、深く根強い物なのだろう。

「私はずっとあの子を見てきた」

 クラリスは俺の知られざる。知るべき過去のページを開いた。



 私は元々アイズマンの姪に当たる存在だった。彼は私が物心つく頃にはアルフィニアの諜報員としてその名を界隈に知らしめていたのだ。そんな彼が行った任務の一環としてトルネシアの戦災孤児の救出や人道支援等があった。

 私の知る限り、リリネルはその孤児救出によって連れてこられた子供の一人であり、彼が直接引き取った唯一の存在だった。

 彼女は母親と此処で暮らしていたが私と入れ替わりで何処かへと越していった。その間、私はリリネルの母リーシャの世話をして暮らした。彼女もまた、なんというか捉え所のない人で色白の肌に白銀の髪、そして蒼眼という美しく凛々しさと教養を兼ね備えた人だった。

 彼女は年齢が一回り以上も離れている私に家事を習い、娘が来たら美味しい目玉焼きを作るという目標を持って私と日々過ごしていた。私は叔父が理由のわからない頼みをしてくる事に憤りながらも、彼女の世話は嫌いではなかった。

 けど、数年して彼女は病に倒れた。その事をアイズマンに報告すると医師が訪れたが、彼等は皆設備の整った病院に係るしか無いとの一点張りで、けれども彼女はそれを拒絶してしまう。

 その内に衰弱していった彼女を看取る事に成るのは遠い話では無かった。死ぬ寸前に彼女は私に勝手な願いを口にした。

「いつリリネルが此処に戻ってきても大丈夫なように、貴女にこの場所を管理して欲しいのです。我儘ばかり言ってごめんなさい。けれどあの子には必要なの、帰る場所が」

 彼女の視線は強かった。まるで何かを決意したような表情で、私の付け入る隙は無かった。凛としているのにちょっとおっちょこちょいで可愛い所があるのに道理を説く時というのは整然としている。理知的で一緒に居ると私もなんだか成長した気になれた。

 そんな人に頼まれたら断れる筈がない。

 そして数日後に彼女は亡くなり、一ヶ月して十歳になったばかりのリリネルは帰ってきた。物言わぬ存在となって……。

「暫くこの子の面倒を見てくれ、俺は行く所がある」

 本当に勝手だ。私をこの歳まで育ててくれた恩は感じている。でもそれが何でも頼める都合の良い存在だと思われている事に私は耐えられなかった。

「叔父さん、次は何時帰って来るの?」

 アイズマンは頭を掻いて気まずそうに笑う。

「何時だろうなぁ、多分一月後だ」

「はぁ? そんなに子供一人で放って置く気?」

「クラリスはもう十六だ。トルネシア王朝期なら立派な成人っ」

 私はズカズカと彼に近づいてレンチを振り翳した。

「他人に親切にする前に……、ちょっとは眼の前の家族を大事にしなさいよ」

 私の言葉が堪えたのか、彼は大きな手で私の髪を撫でる。

「もう少しなんだ。もう少し、そうしたらちゃんと家族になろう」

 熟不器用で、身勝手な男だと思った。じゃあ今は家族じゃないの? けどそれを訊ねる勇気は私には無かった。アイズマンの消息が途絶えたのはそれから一月後の事であった。

 私は残されたリリネルの世話を無機質に努めた。彼女が私にとって大切だった人が遺した子供であるという認識は等に存在しなかった。故に苦痛で物言わぬ少女との日々は苛立ちを常に含んだ。

 リリネルは食事を良く残した。それが当て付けのようで疎ましかった。

「ちょっとアンタ、嫌いなら嫌いってはっきり言いなさいよ!」

 私の叱責にも彼女は顔に無表情を張り付かせる。その癖に下の世話を要求するのだから堪忍ならなかった。辛い、辛かった。私にとって大切な人になっていた彼女の娘に自分の感情をぶつけてしまうことが辛かった。

 だから私は、庭にある彼女の墓石の前で泣いた。そんな日が何日も続いた。そんな日が続く中、私は気付いた。庭から戻るとリリネルは車椅子から落ちていた。それが小さな反抗のように思えて憎らしかったが、そうではなかった。

 ある日はリビング、ある日は玄関、そしてある日は庭の芝生の上に彼女は転がっていた。

「何、してんのよ」

 私は彼女の指差すのが墓石であることに気付いて、その前にリリネルを運んだ。本当に何をしているんだと考えながらも、不意に流れ落ちた涙を少女の指が掬ったのだ。

 リリネルの行動の意味が分からずに無表情を見据えた私は驚いた。彼女の瞳から流れ出す涙を、それがとめどなく流れ出ている様に。

 無表情なんかじゃなかった。訴えかけてきたのだ。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね」

 私は何度も何度も謝った。

 それからだ、私が彼女の説明書を付け始めた。そしてイシマツ理研の力も借りてリリネルのリハビリを行う毎日が始まる。インライン手術によってリリネルの下半身はほぼ感覚を失っている。

 だが、脳に近い部位は慣れる事である程度は動かせるようになるし、将来的に筋肉が成長したら歩く事も杖を付きながらなら可能という結論だった。

 私は理工系の学士を得るために通信制の大学に通いながら、リリネルの表情を動かす訓練を共にする。まずは喜怒哀楽を象るように私が手で顔を筋肉を固定する。そしてそれを彼女が維持するのだ。

 この方法で笑える事を彼女の脳が学習し、感情を結び付ける事で表現が可能となるのだ。これは案外リリネルにとって楽しい物のようで最初に覚えたのは微笑みだった。

 けれど、歩く訓練は苦難の道で両脇をポールで支えながら全身に汗を滲ませてよろよろと立つ彼女は最初立つことすらままならず、歩いても数歩が限度で床に転げては今更心配する私に笑みを投げかけるのだ。

「リリネル、痛かったら痛いって顔していいのよ? 無理に笑わないでいいの」

 すると、彼女はゆっくりと電子音声で声を紡いだ。

〈私の、こと、嫌いにならない?〉

 私は少女を抱きしめて首を横に振る。

「ならない、もう絶対にならない」

〈じゃあ、いなく。ならない?〉

 彼女の絶望の根幹を担っていたのは誰かがリリネルの前から居なく成るという恐怖であり、それが無理な努力に繋がっていた事に気づくのは足が豆だらけになってからの事だ。

「ならないよ、ずっと一緒にいようね。私が守るから、リリネル事」

 四年の歳月が流れ、大学の学士を得た私はドローンの技術を応用して彼女専用の車椅子を開発した。その頃になるとリリネルの表情は実に豊かになり、彼女は目的の為に動き出していた。

「アイズマンを探す? あんなロクデナシなんてほっときなさい」

〈そうは行きません、彼は戻って来ると約束をしました。彼は一度たりとも約束に遅刻した事はあっても破った事はありません。何かに巻き込まれたのです〉

 確かに、彼女の言葉は尤もである。故に彼の設ける期限には必ず信用が紐づいた。それでも私達は捨てられたという感情が強かったのだ。それに私のエンジニアとしての職で十分に食いつなげるだけの収入はある。

 だから納得が出来ずにいた。だけど、こういう時リリネルは本当にずるいのだ。

〈クラリス、久しぶりに抱っこしてください〉

 私は彼女に呆れながらも膝を抱えて抱き上げる。白の和服に似合う少女の肌に温度を感じると安心するのだ。

〈お母様の墓前に行ってくれますか?〉

 そのオーダーも私を動かして、彼女の墓の前に私達は腰掛けた。

〈あの日、私は貴女に謝られましたね〉

「うん、本当に」

 更に謝ろうとする私の口を彼女の小さな手のひらが塞いだ。そして私を優しい目で見上げたのだ。

〈私は、貴女に泣いて欲しく無かったんです。何時も、此処で泣いていたでしょ? 私の大好きなクラリスが大好きなお母様の前で泣くのが耐えられなかったのんです。だからね、私は変わらねばなりません。貴女に守られるお子様から、貴女と対等に立つレディとして、その第一歩こそ、彼のことを見つける事だと私は思うのです〉

 あぁ、本当に、この子はずるい。こんなに自信満々で何もかも解決してくれそうな顔されちゃったら認めるしかないじゃない。

「分かった。けど、ちゃんと帰ってくること。ライン潤滑剤の投与は誰かにさせない事、良いわね」

〈勿論、私はクラリス以外に肌に触れさせる気はまだありません〉



「貴方はたったの数週間で彼女に信用された。その目、人殺しの目でしょ」

 俺の目を見るクラリスは冷たい表情だった。言い訳なんか出来ない。俺は確かに人殺しだった。多くの人間を殺した。

 それは変わらない事実なのだ。

「言い訳するつもりなんて無い。この目は戦地で受けたモノだ」

 アイコンダクターを長時間使用すると内部光線によって虹彩が変性して赤く染まる。それが光線退色と言って元々の色合いによって違うが、俺の場合は他者よりも装着時間が長かったから顕著に退色が現れた。

「なんでよ、なんでアンタなのよ」

 静かな怒りが俺の胸を叩いた。されるがままを受け入れる俺を彼女は舌打ちをして踵を返すと自分の部屋に向かう。

「慰めてやって、恥ずかしい所見られたのよ」

 彼女の言葉を受け止めて、リリネルのいるリビングに顔を出した。そこで彼女は薄衣のランニングシャツを纏って細い膝を抱きながらアレクサンダーに顔を埋めていた。

 俺を見るアレクサンダーは同時にリリネルを見下ろすと仕方なさそうにして前足に顎を据える。

「俺は気にしてない」

〈乙女の痴態を見られたの、気にしないなんて出来るわけ無いじゃない〉

 彼女の感情的にはそれもそうか。俺は何時かリリネルを殺すかも知れない相手なのだ。その俺に弱みを見せられないのは当然の帰着だった。

「そう言えば、お使いを頼まれてたんだったな。あれはライン潤滑剤の事だったのか。じゃあ、俺が悪い」

 彼女に言い聞かせるように紡ぐ。するとリリネルは顔を上げる。蒼く深い色の瞳は涙を伴って揺れ輝いている。

〈そう言って貴方はなんでも自分で背負い込んでいたんですか?〉

 責めるような彼女の視線、俺はリリネルの感情の遷移を見極め切れずになんと返すのが正解なのかも分からなかった。

「…………」

 彼女は俺の方へと踏み入る。ソファーを辿って両手で身体を移動させながら。

〈そうして他人の自立を奪う事が、貴方のしたかった事なの?〉

 華奢な彼女の腕が俺の首に掛かった。そのまま体重を乗せられるとあっという間にリリネルを支えようとした俺の身体はソファーに沈む。彼女の作り出す状況の中で俺の理解はあっという間に置いていかれて眼前の少女の不安や疑問を追う事が出来なかった。

 俺の下腹部に乗りかかる少女は前かがみになって、ランニングシャツの合間から未発達の稜線が浮かび上がろうとした所で目を逸らす。

〈私を見て〉

 命令のように単純で、願いとしては不明瞭。

「リリネル……やめろ」

〈何故ですか? 貴方は被りようの無い戒めを自らに課すのでしょう? なら私のそれも被って下さい。この幼稚で華奢な私の興味を、摘んで飲み干して下さい〉

「何を言ってるんだ……」

〈分かりませんか? 恥ずかしい所を見られたんです。ならもっと恥ずかしい事をして、上書きするしか無いでしょ?〉

 俺は思い出した。コイツ等は何時も俺に無垢な目を向けていた。そうして俺から無理を引き出していたんだ。いいや違う俺がそれを望んだから……。

「分かってんのか、お前を何時か殺すかも知れない人間なんだぞ」

〈分かっています。最後に見る男の顔が私が着けた劣情の実を摘んだ男でも良いでしょ?〉

 不純な動機に関する怒りが、俺を引っ張り上げた。

「一緒に沈んでやらねぇよ、お前なんかと」

 彼女の瞳が光を膿んだ。そうして俺の胸に顔を埋める。その小さな慟哭のままに、彼女を置いておくことも同時に拒んでいた。

「アンタの泳ぐ姿は、綺麗だと思った。少し位恥ずかしくてもそれを帳消しに出来るんだ。だから最後に見せるアンタの顔は気高さを保ったままでいてくれ」

 顔を上げたリリネルは呆けた顔をした後に急激に真っ赤になっていった。そして、俺の胸に頬を預けると小さな口を結んで言った。

〈言質取りました。もう二度と、他人の罪を被っちゃだめですよ?〉

 全く、それが目的かよ。と俺はソファーの端にあるクッションを引き寄せて枕にした。彼女の寝息が聞こえた頃にアレクサンダーもやってきて俺達をその巨体で埋めてくる。若干の重さと息苦しさを介在させた夜更けはこうして過ぎていくのであった。

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