第73話 エピローグ 3
3
脳内の洋二と複製生体の洋二のシンクロ率はかなりのもので、回想した時のニヤニヤ顔は複製生体の洋二にもリファインされていた。
その脳内で監視網の中の一つがアラートを示した。
―飯田安奈、か。
彼女がようやく決心したようだ。
そのアラートは飯田安奈が空港に向かっていることから鳴弦したのだ。
もし飯田安奈がその選択をするならば、やろうと思って準備していたことがあった。
洋二はそれを脳内で、実行した。
「そうです。ネットバンキングで直ぐに確認して下さい。ちょっと待ちますから、今直ぐ。―――。あ、確認できました? いや、いいんです、そちらの篤志に胸打たれた者です、額は関係ない。見返りというワケはないんですが、今から飯田安奈という女性がそちらに参ります。エッ、事前に電話してましたか、では話は速い。実はですね・・・」
安奈は臍の緒と五本指全ての指紋を朱肉で取っておいた。
これだけ証拠を準備するということは、やはり取り戻す気持ちがあったのだろうと安奈は自分で今気付いていた。
だがなにしろ一度は捨てた命なのだ。
病院の先生が直ぐに引き渡すとは限らない、と安奈は考えていたが、あっさり話はついた。
まず病院では24時間監視カメラが複数台取り付けてあったので、直ぐにこの赤ちゃんを捨てた女性だと気づいたのだ。
そして「神田川さんという方をご存知でしょうか」と尋ねられた。
院長の話によれば、今朝病院にそうとうな額の大金が振り込まれ、そちらの命を守る精神に打たれた、と電話で云ってきたと云う。。
次に安奈の話が出て、捨てた赤子を引き取りに来るから二つ返事で頼まれたという。
捨ててから、二か月経っていた。
養子に出されることを考えれば、今月がもうリミットだろうと安奈は考えていた。
だがそれをすれば、自分が逃げていた、実家や世間と向き合わなければならない。
でも、それがなんだと言うんだ、という境地にようやく安奈は辿り着いたのだ。
二十代の女のいちばん良い時期を妻子ありのおじさんに捧げ、妊娠して捨てられ、ホームレスに身を落として出産し、直ぐに病院から逃げて、赤ん坊を捨てた。
それに比べれば、実家や世間なんて、屁のようなものではないか、という境地である。
「その子の名前、なんて言うんです。この病院で付けていた名前はもう忘れて下さい」
「いえ、教えてくれませんか?」
「麻耶とみんなは呼んでました」
「では、その名前をいただきます」
これから手続きはヤマのようにあるが、洋二の大金が効いたので、今日のところは、その麻耶を連れて帰れることになった。
ナースたちに深々と頭を下げた。
その女性看護師たちの数人はボロボロと泣いている。
―私は捨てた上に一度も泣かなかった。
それどころか、名前を付けることも思いつかなかった安奈だった。
タクシーを呼ぶことを院長は提案したが、娘が生後二か月間だけ暮らしたこの土地を少し、歩きたかった。
―これから数年はこの小さな存在の食事や排泄だけの世話で生きていく、のか。
泣き声、と思ったが、違った。
笑っているのとも違う、笑い声の練習のような声、なんとも名状しがたい声がこぼれていた。
安奈は両手に抱いた赤ちゃんの顔を見た。
今初めて見たと云える。
手の中にこの世の全てがあった。
「まあちゃん、ごめんね、もう絶対に捨てたりしないからね」
安奈は道端で崩れ落ちた。
往来の真ん中で、ようやく彼女は人間に戻れたのだ。
脳内の洋二が物凄く手早く、自分の脊髄に刺さるコードを引っこ抜く。
現在の洋二は重症状態だが、この脳内は羊水のような液体で満たされており、痛みや衝撃をほぼ感じない。
手だけは動かせて、その両手で昨夜のような自分の複製生体をロボットのように動かせるので、足腰はほぼ動かせないが、手は動かせるので、コードを数本抜いたのだ。
何故か?
コードを刺したままだとクラスにいるロボットの複製生体に脳内の洋二がシンクロしているから、ビビットに脳内の洋二の感情による表情の変化がダイレクトにそのロボットに反映されてしまうからだ。
つまり、洋二は安奈の泣き崩れた姿を見て、みずからも号泣したのだ。
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