第68話 春、藍、十七歳 8
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「藍、私は歯医者の予約があるから、代わりにお父さんの会社に届け物してくれるかな?」
母親の話によると、父親が午後の会議に使うUSBメモリを忘れたと云う。
それならば、メールかクラウドで父の会社のPCに飛ばせばいいんじゃないか、と藍が問うと、母親は、「やり方、お母さん知らないけど、藍は知っているの?」と云った。
―いやいや、さっき電話で話しているの、聴いていたゾ。「もう藍も六年生だから、中学からは電車通学になるだろうから、任せてみよう」と。
「私も知らないし。そんじゃあ、行ってくるよ」
藍にも一人で都心のビジネス街に行くのは楽しそうだという心が芽生えた。
派手にならず、それでいて、ちょいと大人っぽく見える感じ、そこで青のストライプ柄のブラウスを着ていった。
上野に出て、後は一本で行けるからそんなに乗り換えは難しくなかったが、電車を降りるとどこが父親の通うビルかが判らなくなった。
確かに案内板で指示されたアルファベットと数字で構成され出口に出たが、どこから入れば判らなかったのだ。
どうも地下から入ろうとしてたのが間違いのようだから、一階に出てみた。
それはエントランスという、いかにも入口めいた空間だったのだが、さて、これで父親のいる会社のフロアにどう上がったものだろう、と藍は試案した。
つまりゲートを通るためにはIDが必要だったのだが、乗り換えや地下出口のことばかり頭にあり、藍の両親はIDのことを伝え忘れた。
「どうしたの? 話してみてよ」
これが飯田安奈だった。
インフォメーション業務の制服を着ていたこともあってか、未だ20代だったが、藍の目にはとても大人っぽく見えた。
確かに藍の動作は挙動不審のように慌てていた。
藍は計画を遂行するには鋼の精神を持つが、想定外のことには弱い。
受付ブースから出て来てもくれたので、信用した藍だった。
だから藍は自分の父親の名と所属する会社の名前を告げた。
「ここからお父さんの会社に直接連絡することはルール違反だから、携帯電話を貸してもらえるかな」
今となってみては、このルールが本当にあったかは疑わしい。
そして藍は、父親をガラケーで呼び出せば済むことに今気付いた。
藍がロックを外し、携帯電話を安奈に渡す。
「一階のインフォメーション、飯田と申します。お嬢さん、見えてますよ。降りてきていただいていいですか」
数分後、父親は降りてきた。
「おお、ちゃんと来られたじゃん!」
と藍には云い、安奈には「ビジター用のIDをお願いします」と云った。
「いやいや、お父さん、直ぐに帰るよ」
「こういう時ってさ、『娘がオレの忘れ物を届けてくれたんだよ!』とか言ってさ、自慢するもんじゃないか?」
「だから、そういうのが恥ずかしいんだよ!」
心温まるような二人の会話をその時、飯田安奈はどういう表情で聴いていたかを藍は憶えてない。
不倫相手とその娘の楽しそうなシーンは見ていて気持ちのいいものではないだろうが、このシチェーションを呼び込んだのは安奈である。
彼女も真っ当な社会人であるし、今のご時世わざわざ付け加えるのはなんだが、美しさと可憐なルックスを兼ね備えていた。
だがこういう自分で呼び込む災難に無防備なところが、彼女を昔から不幸にしていたし、そのことに無意識だったことが輪にかけて彼女を不幸にしたのだった。
藍からすれば、自分は無傷だったが、襲おうとした相手で、自分に色々してくれる洋二が妙な事になったのは彼女のせいなので、この二つの意味からイヤな相手だが、どうにも憎めない。
確かに母親と一緒で、父親に騙された女性、同じ女として、父に怨みが向かうきらいはないでもないが、なにより、この人が孕んだのは私の弟か妹なんだ、というあまりにも単純な事実が、どうにも藍にはヘンな気持ちにさせている。
多分、闘犬や軍鶏と同じで、この女性を恨んだら、父という男性的なものの権化の手のひらで弄ばれる女の一人になるような気がしたのだ。
もし藍に闘っている相手がいるとすれば、その〈そのような気〉が相手であった。
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