第3話
新幹線駅からローカル線に乗り継ぎ約1時間半。寂れた無人駅のベンチで1日に2本しかないバスを待ち、昭和からずっと現役のような錆びついたバスに揺られ40分。ようやく亜紀の家があるX市鳴神谷地区の商店街が見えてきた。
駅でバスを待っていた1時間、誰一人として見かけることはなかった。バスの乗客も終始、わたしたちだけだった。
バスを降りたとき、時計の針はすでに午後3時を回っていた。長時間の移動で体はすっかり凝り固まり、バスから降りた私たちは、体の節々をほぐすように大きく伸びをする。
商店街の入口には、「ようこそ深凪商店街へ」と書かれたアーチ看板が掲げられていた。ペンキ文字は白っぽく色褪せて乾き、今にも消え入りそうだ。
暑い日だった。じっとりとした湿気が肌にまとわりつき、わたしは額に滲んだ汗を手で拭った。風ひとつなく、重苦しい蒸し暑さが通り全体に広がっている。
「さっきの駅でタクシー拾えばいいやと思ったのに、めちゃくちゃ辺鄙な無人駅でしたね。タクシーどころか、コンビニも、いや、商店すらなかった。この世の果てにきちゃったかと思いました」
「ほんとにね。でも、木田くんはコンビニがないと、いつもこの世の果てって言うよね」
「そりゃそうっすよ。半径500メートル圏内にコンビニが6軒もある都会育ちのシティボーイなんで」
昭和の終わり頃まで賑わっていたであろうレトロな雰囲気の商店街だが、今や、ゆっくりと終焉を受け入れているように見えた。シャッターが下りたままの店が多く、その錆び具合からすると、もう二度と誰もその扉を開けることはないだろう。営業中の店のガラス戸に貼られたポスターも、砂埃にまみれてすっかり古ぼけてしまっている。
「昔はここから少し登った高台に凪淵寺という寺があって、そこそこ賑わっていたらしいんですよ。それが廃寺になって、それから集落全体も寂れてしまったみたいです」
アーチ看板の柱に、ブリキでできた商店街地図が貼ってあるのに気がついた。印刷ではなく、達筆な人が手書きで書いたような文字だ。長年雨風にさらされていたせいでところどころ錆びているが、文字はかろうじて読むことができた。枠外に昭和60年8月現在と書かれている。
地図には凪淵寺の文字もある。寺は商店街の北側、山の中腹に立っていたようだ。その方向を見上げてみたが、おそらく周辺の杉が当時よりも成長しているのだろう。林に遮られて、何も見えない。
「へぇ、最盛期にはこんなに店があったんですね」
横から木田くんが覗き込んできた。
「酒屋、食堂、茶屋、洋品店、履物屋、金物屋……。ここに来ればなんでも揃ったんでしょうね」
「そうみたいね」
その地図にスマホをかざして撮影する。
「だけど今じゃ、深凪って名にふさわしい静けさになっちゃったみたいね」
わたしはもう一度、商店街に目をやった。やっぱり、不自然なまでに人影が見当たらない。
「そういえば木田くん、亜紀の家の鍵は借りてきたの?」
「それが、亜紀さんのご家族は、あの家の売買を担当した不動産会社に鍵を預けているらしいんです。もし……」
木田くんは気まずそうに目を逸らした。
「……もし、警察が何か手がかりを掴んだら、すぐに対応できるようにって……」
わたしは無意識に両手を握りしめた。汗で手のひらがじっとりと湿っている。
亜紀の行方不明者届は出されているが、動画は演出の可能性も否定できないということで、事件性は低いと判断されていた。他の何万件とある行方不明者同様、警察が動く気配はないようだ。木田くんが言うところの「警察が手がかりを掴んだら」というのは……何かしらの事件性を示す証拠が見つかったら、という意味だろう。
「亜紀さんのお姉さんに、室内に入る許可をもらってあります。それで、不動産会社には今日行くって伝えてあったんですけど、昨日電話があって、急な査定が入ったとかで、臨時休業にするって言われたんです。だから、鍵は明日借りに行きます」
「そう……それなら、家の外観だけでも見ておこうか」
こうしてわたしたちは、亜紀の動画を再生しながら、家のある下り坂を下りていったのだ。
亜紀の家の周辺は、谷のような地形になっている。周辺にはほかに3軒の家が立っているが、どれも屋根の一部が欠損したり、外壁が崩れ落ちている廃墟だった。そんな中で亜紀の家だけが、やや古びた中古住宅といった雰囲気を保っていた。
突然、強い風が吹き抜け、隣の廃屋のトタンがガタガタと揺れた。その音があまりにも大きくて、わたしは飛び上がりそうになった。
何だか……近づくなと言われているみたいだ。
「さっきまで風なんてなかったのに、ここに来たら急に風が強くなりましたね。寒いくらいだ。やっぱり、谷だからかな?」
木田くんはそう言ったあと、スマホの地図アプリを開いて、道路の先へと視線を向けた。
「地図アプリではこの道、もう少し先で途切れているんですけれど。どうします? ちょっと見に行きますか?」
わたしも、この道の先に何があるのかは気になってはいた。しかし、この風と陰鬱な冷気に圧倒されて、気づかないふりをしていたのだ。
だけど木田くんがそう提案してきた以上、仕事として行かねばならない。仕事をもらっている立場のライターとしては、木田くんに対して「余計なことを言いがって」などとは、決して思ってはいけないのだ。
亜紀の家を通り過ぎると、道路の両側の鬱蒼とした林がさらに迫ってきた。枝葉が手を伸ばすように道にかぶさり、道幅がどんどん狭くなっていく錯覚に陥る。通る人はほぼいないのだろう、アスファルトはひび割れ、雑草が伸び放題に生い茂る。空気はますます重く冷たくなり、わたしは自分でも気づかないまま、鳥肌の立った二の腕を両手で掴んでいた。
10分ほど歩いただろうか。アスファルトが突然途切れ、わたしたちの目の前に暗い林が立ちはだかった。そのわずかな隙間から、人ひとりが通れそうな細い道が続いている。背丈ほどの草が道を覆い隠すようにかぶさり、その奥は暗闇の中へと消えていく。獣道なのだろうか、それとも……。
あたりは静寂に包まれている。――風があるというのに、どうしてこんなに空気が澱んでいるのだろう。
「……三恵さん、これ見てください」
木田くんの声はかすれていて、妙に小さく聞こえた。木田くんが指差す方を見ると、獣道の入口に、小さな石がいくつも積まれているのが見えた。
「これって……積み石?」
そう呟いたが、木田くんからの返事はない。
風が急に強くなり……冷気が肌を刺すように感じた。頭の中で本能が叫んでいる。「これ以上進むな」と。
「……今日は、やめておきましょうか。だってこれ……僕たちまで行方不明になっちゃうフラグですよ」
木田くんはおどけたように言ったが、その声が微かに震えていることに、わたしは気付いた。
ふと視線を感じて、草木に覆われた道を見る。けれどもちろん、そこには何もいない。風が耳をかすめ、わたしは何かを聞いたような気がした。
それはまるで――低くかすれた、誰かの声のようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます