第65話 たまには幸せな時間を
今年は1920年(大正9年)だ。
結局、スペインかぜパンデミックは起こっておらず世の中は落ち着いている。
第一次世界大戦終結に伴って戦争特需は終了したが、史実ほどの不景気には陥っておらず、高橋蔵相のコントロールが効いていると感じる状況だ。
オリガと結婚してもうすぐ2年となる。
俺が彼女に対して最初に教えたことは日本の歴史だ。
基本的にヨーロッパへの意識しかない彼女にとって東洋の歴史は新鮮であったみたいだし、日本という国の成り立ちと近隣諸国との関係性を知ると、とても興味深そうにしていた。
特に彼女が反応したのが日本の歴史の長さだ。
文句の付けようがない世界最長級の歴史を有する国家であると知って驚いていた。
まあ知らないのが普通だよな。日本という国はヨーロッパ白人の意識の中に入っていないだろうから、それが彼らの常識だ。
この時代の日本人に対するヨーロッパ側からの認識は「黄色い猿」であって、オリガが日本人を自分たちと同じ人間だと認識したのは日露戦争が終わってからだそうだ。
そんな風に周囲から刷り込まれていたらしく、申し訳なさそうに言われた。
彼女が10歳になるかどうかという時期には日露戦争において両国は敵対していたのだ。仕方ない部分だろう。
それが白人が有色人種に持つ一般的な認識だ。
また日本との戦争中においてはロシアが勝利して日本を植民地とする前提で戦後策を考えていたそうで、超大国ロシアの怖さを見た気持ちだ。
ロシアを含むヨーロッパの常識では国家の上下関係を決める要素は、国力や軍事力も一つの指標だが、それ以上に国家としての歴史の長さで決まるらしい。
すなわち古い歴史を有する国家であればあるほど上位に位置して尊敬されるとの事だ。
だからそういう意味では日本は世界の頂点に立つ凄い国家だと認識できたわけだ。
また、我が近衛家の歴史も相当に古い事実を知って驚愕していた。
ヨーロッパの常識で言ったら、近衛家ですら頂点に位置する事が可能なくらい古い家系とのことだ。
まあ俺は当然の事ながら天皇家を含めて世界との比較と事実関係は全て知っていたけどな。
だからこれからはそういった認識も含めて世界に発信していくことによって人種差別の概念を薄める効能があるだろう。
ちなみに意外かもしれないが、日本と長い歴史を争うのは今なら伝説のシヴァの女王の国エチオピアか?
俺は結婚してからは、それまで参加を遠慮していた宮中晩餐会とか、園遊会とか、国賓として招いた外国の賓客に対する接遇とかにも積極的に参加するようになった。
いや、本当はそれまでも参加すべき義務があったのだが、独身だったから父にお任せして逃げていたに過ぎない訳で、結婚後はそれまでの分を返せという訳では無いにしても頻繁にお誘いを受けて、オリガと共に出席する事となった。
しかし、23歳と若いながらも、彼女の人気と影響力は俺の想像以上のものだった。
あまり深く考えていなかったが事実を並べると、彼女はロシアはもちろん、ドイツ、イギリス、フランスといった日本人が憧れる国々の社交プロトコールを完璧に身に着けた本物の皇族だ。
また由緒あるロシア皇帝の第一皇女であり、大公女(Grand Duchess)の称号を持ってもいるし、現皇帝の姉君でもあり、幼い頃からの教育も日本のものとは全く違う本格的なものだった。
当然、テーブルマナーやダンスといった分野も非の打ち所の無い、「本物」という言葉でしか表現しようのない優雅で完璧な所作だったから、近衛公爵家の肩書きも手伝って、たちまち日本の華族社会に属する御婦人方の頂点に君臨する存在と認められるようになった。
そのインパクトはあの大山捨松の比ではないだろう。
また、我が国が大国と認められる事になって以来、頻繁に訪れるようになった諸外国の賓客に対しても堂々と対応出来るし、殆ど、いや全てと言って良いほど、相手よりも「格上」だから、日本の外交上も極めて有利であり、そういった事もあって政府からも頼りにされているし、目立つ存在となっている。
いやいや。そんな事を俺は狙っていなかったし、俺は単純にオリガに惚れただけなのだが。
そこまでは良かったが、何でも彼女のやる通りにすれば間違い無いのだと認識されてしまったのは大失敗だった。
日本人には明治以降の西洋コンプレックスによる舶来信仰というか、欧州崇拝の傾向は令和でもあったが、この時代は想像を絶するくらい強烈なものだったし、大山巌は極端にしても「西洋かぶれ」と言われる傾向は随所に見られていた。
また、折からの「モダンガール」の風潮も手伝ったという側面があるのかもしれないが、一般国民の間でオリガの服装を真似た若い女性が多数出現して街中を闊歩したり、俺はよく知らないし近衛家も関知していないが「織雅」という名前の謎のファッションブランドが発売されて大人気となったり、最後には「オリガ様カット」なる珍妙な髪型が華族の、それも伯爵家以上の結構なお年頃の御婦人方の間で流行りそうだったので慌ててやめさせた。
ある時、オリガだと思って後ろから声を掛けたところ、振り返った人物が俺が子供の頃から知っている某侯爵夫人だったのだ。
その時の恐怖と言ったら…俺は悲鳴を上げそうになったが、何とか堪えた。
そんな事をやっているから猿真似だと言われるんだって!
日本人には西洋人が真似できない良さがあるのだから、そっちを伸ばしなさいと言いたい。
そもそもオリガだって懐石料理のマナーなんてマスター出来ていないし、着物の着付けなんて出来ないのだからお互い様なんだよ。
これを機に過剰な外国信仰はやめさせて日本文化の良さをもっと広める事にしよう。
普通の人間がやっても説得力が無いが、オリガの夫である俺なら説得力と信憑性が増すだろう。
こんなの俺の本来の仕事じゃないけど仕方ない。
そんなドタバタもあったが、俺たちの間に待望の子供が出来た。
男の子だ。名前は一高(かずたか)と名付けた。
幸いな事に現時点ではとても元気で、アレクセイ陛下のような血友病の症状は表面化していないが、例え発症したとしても全力で愛する事に変わりはない。
俺たちが住んでいる家は相変わらず新宿のままだが、オリガの生活習慣に合わせて和風の造りから洋風へ内装を改築した。
彼女には畳は異世界のモノに見えるだろうし、俺も21世紀の人間だから椅子と机がある方が楽だ。
この辺りの事は妹の武子が故大山巌の長男に嫁いだから、大山邸を見せてもらって色々と参考にした。
いや、家の外観は本当に魔女が棲んでいそうな佇まいなのだが、意外に内装は参考になったし、流石に「無類の西洋かぶれ」と言われただけの事はあると妙なところで感心した。
大山捨松本人は気に入って住んでいる訳では無いような口ぶりだったが…
亡き夫の趣味に呆れていた部分もあったみたいだ。
ただし内部の改装はしたが、玄関で靴を脱いで家に入る事は改めていない。
これはオリガとしては最初ハードルが高かったみたいだが、すぐに慣れたらしい。
彼女が特に気に入っているのが日本の食べ物と気候らしく、季節毎の旬の味を楽しみにしている。
言葉の問題も心配しなくて良さそうだ。日本語のレベルは相当上達してきているから俺が居ない場所でも普通に日本語を操ってコミュニケーションをとっているとの事だ。
これで何か国語をマスターしているのかな?露・独・英・仏・日か…凄いな!
それから俺は彼女と結婚する際に、この世界に来てからまだ誰にも、父母にすら話したことのない俺自身の秘密を打ち明けた。
それは勿論、俺の前世と転生についてだ。
妻となる人に対して秘密を抱えたまま一緒に暮らすのは心苦しかったというのもあるが、俺がこの世界に来てから最も大きな関わりを持ち続けたのはロシア帝国であり、ロマノフ王朝だったわけだ。
俺から見たら時には恐ろしい侵略者、時には強大な敵、またある時には心強い味方と、目まぐるしく変化し続けたけれども、常に目の前にあって、何か強い因縁というか繋がりを感じたのも事実だ。
俺の中身は転生したもので、100年以上未来の西暦2026年の世界を知っていると聞いたオリガは、最初は何かの笑い話か、出来の悪い冗談の一種だと思っていたみたいだが、徐々に真剣な顔つきになっていった。
そして話が「ポグロム」に及んだ辺りからは顔が徐々に引きつりだした。
彼女なりに思い当たることがあるのだろう。
更には史実と現在の差、特にオリガ自身が既に家族と共に虐殺されていたと俺が教えた時は気絶しそうになっていた。
ここは気の毒ではあるが、きちんと史実を伝えなくてはと考えて、心を鬼にして話した部分だ。
その後のソ連とスターリンの独裁に伴う民衆への虐待と弾圧、第二次世界大戦の惨禍に日本の敗戦と米ソによる冷戦。最終的なソ連の崩壊と第三次世界大戦に至るまで、そして日本の敗戦を防ぎ、更には第三次世界大戦の原因を除去するという俺の目的についても洗いざらい全部話した。
また、分かりやすく理解してもらうために20世紀になってからの史実と、現在までの違いを一覧表にして説明した。
これから先の史実で起こる部分は書いたが、当然この先の現実の部分については関東大震災以外は空白のままだ。
全てを話し終えたあと、オリガはただ一言「一緒に罪を背負って生きて行きましょう」と言ってくれた。
その言葉を聞いた瞬間、俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。
以前にも触れたが俺が今まで誰とも結婚しなかったのは、この時代において俺はエラーのような存在だからというのもあったが、俺が無意識ながら人類に対する「罪」の部分を気にしていたからだと初めて気付かされたからだ。
どういう事かと言えば、俺の存在、あるいは策によって死なずに済んだ人間は確かに多いけれども、逆に命を長らえる事が出来なかった人間も少数だが存在するわけで、その人たちから見たら俺は犯罪者なのだ。
「死んだはずの1万人を救ったのは事実なのだから、史実で死ななかった100人くらい死んだって問題無いだろう」などと言い始めたら「ヒロシマとナガサキの死者がいなかったらアメリカ軍に100万人の死者が出ただろうから原爆投下は正しかったのだ」という連中と同じところまで堕ちてしまう。
そうはなりたくないし、常に罪の部分を意識の片隅に感じていたのだ。
そしてそれは将来においても同様で、俺のせいで更に死者が増えるだろう。
彼女はその「罪」を共に背負ってくれると言ってくれたのだ。
俺にはもったいない程、得難く聡明な女性で、これから俺の心強いパートナーとなってくれるだろうと確信した瞬間だった。
そして何故俺がこの時代に飛ばされたのか?
やはりロシアとの関わりと、それを通じたオリガとの出会いにまで何者かに誘導されていたに違いないと感じるようになった。
今まで戦いの連続だったけれど、人生において幸せな時間も必要なのだと心の底から感じた。
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